第60話 失った時間

三途の川のほとりには、今日も冷たい霧が立ち込めていた。しかし、その霧の中には、何か取り返せないものを求めるような、切ない感情が漂っていた。少女は、今日訪れる魂が、生前に失った時間を悔やみ続けている者であることを感じ取った。その後悔が彼を縛りつけ、この地に導いたのだろう。


「今日やってくる亡者は、失った時間に囚われた者だ。」


脱衣婆の静かな声が霧の中に響いた。時間――それは人の手には決して戻らないものであり、その喪失感が後悔をもたらす。過去に囚われて前に進むことができない魂は、永遠にその痛みに苛まれる。


霧の中から現れたのは、ぼんやりとした目をした老年の男性だった。彼の顔には深い疲労と後悔が刻まれており、その姿には、人生のどこかで取り返せない喪失を経験したことが窺えた。


「彼は、生前に大切な時間を無駄にし、その後悔に囚われ続けています。その思いが、彼の魂をここに留めているのです。」


脱衣婆の説明に、少女は彼の表情をじっと見つめた。彼が抱える喪失感と後悔の重さが、その魂を深く縛りつけていることが伝わってきた。


「あなたは、どんな時間を失ったと感じてここに来たのですか?」


少女は静かに問いかけた。彼女の声は優しく、しかしその言葉はまっすぐに男性の心に届くように響いていた。男性はしばらく何も答えず、ただ俯いたまま動かなかったが、やがて静かに話し始めた。


「私は……家族との時間を無駄にした……若い頃、私は仕事ばかりを優先して、家族と過ごす時間をほとんど取らなかった……妻や子どもたちは、私の帰りを待ってくれていたのに、私はいつも忙しいと言い訳をして、家を空けていた……気が付いた時には、妻は先に亡くなり、子どもたちも私から離れてしまっていた……もう取り戻すことはできない……」


彼の言葉には、深い後悔と喪失感が込められていた。彼は、家族との大切な時間を見過ごし、その代償として孤独に苛まれていたのだ。


「あなたが抱えていたのは、家族と過ごせなかった時間への後悔と、それを取り戻せない悲しみだったのですね。」


少女はさらに問いかけた。彼がその喪失感にどれほど囚われ、何を感じてきたのかを理解するために、慎重に言葉を選んだ。


「そうだ……私はいつも後回しにしてきた……家族との時間を軽んじて、仕事さえあればいいと思っていた……でも、本当に大切なものを見失っていた……今になって、それがどれほど愚かだったか気付いた……」


彼の声は震えており、その言葉には深い後悔と自己嫌悪が感じられた。彼は、失った時間が戻らないことを知りながらも、その重みを抱え続けていたのだ。


「失った時間は戻りませんが、その思いを胸に刻み、今の自分に生かすことができます。過去の喪失感を抱えながらも、未来に向けてその思いを大切にすることで、魂は救われるでしょう。」


少女は彼に向かって静かに語りかけた。彼がその後悔を昇華し、失った時間を未来への教訓とすることで、魂の救いを見出せるようにと、優しく言葉を紡いだ。


「でも……私はもう何も取り戻せない……家族はいなくなり、私はただ一人取り残されている……その思いをどうすればいいのか分からない……」


彼の声は弱々しく、その言葉には深い無力感と喪失感が込められていた。彼は、失った時間を埋め合わせる方法がないことに苦しんでいたのだ。


「あなたの心の中で、家族との絆は生き続けています。その絆を胸に抱き、未来に繋げることで、過去の時間もまた意味を持つようになります。あなたの愛と後悔が、新たな価値を生むのです。」


少女は彼に向かって優しく微笑んだ。その微笑みには、彼が家族への思いを胸に抱き続け、未来へと繋げる力を見出せるようにとの祈りが込められていた。


「そうか……家族との時間は消えてしまったのではなく、私の中に残っているのかもしれない……それを大切にすることで、彼らと繋がり続けられるのかもしれない……」


彼の言葉には、ほんのわずかに未来を見据える光が感じられた。彼は、失った時間を心の中で取り戻し、未来へ繋げる方法を見つけようとしていた。


「家族との絆は、あなたの心の中に永遠に生き続けます。その絆を大切にし、それを未来に繋げることで、魂は安らぎを得るでしょう。」


少女は彼に対して力強く語りかけた。彼がその後悔を超え、失った時間を未来の希望に変える力を得られるようにと、心を込めて言葉を紡いだ。


しばらくの間、彼は何も言わずに立ち尽くしていたが、やがて顔を上げた。その目には、わずかに希望の光が宿り始めていた。


「私は……その道を選びたい……家族との絆を胸に抱き、それを未来へ繋げたい……」


彼の言葉に、少女は微笑んだ。彼が失った時間を未来への希望に変える道を選んだことに、少女は安堵した。


「よろしい。あなたが選んだその道が、あなたの魂を救うことになるでしょう。」


脱衣婆が静かに告げると、霧の中から一筋の光が差し込み、彼の姿を包み込んだ。彼の表情は次第に穏やかになり、家族との絆を胸に抱いたその顔には、ようやく安らぎが訪れた。


「ありがとう……」


彼の最後の言葉が、少女の耳に届いた。やがて、彼の姿は光の中に溶け込んでいった。


「今日の裁きから、何を学びましたか?」


脱衣婆が静かに問いかけた。少女はしばらく考え、静かに答えた。


「失った時間も、心の中で絆として生き続けます。その絆を未来に繋げることで、魂は救われるのだと学びました。」


脱衣婆は満足そうに頷き、次の亡者がやってくる準備を整えた。少女もまた、その言葉を胸に刻み込み、次なる裁きに向けて心を整えた。


霧が再び立ち込め、次の魂が訪れる予感が漂ってきた。少女はその静かな風を感じながら、今日の裁きがもたらした教訓を胸に、次なる試練に備えて心を引き締めた。

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