第59話 叶わなかった約束
三途の川のほとりは、今日も冷たく静寂に包まれていた。しかし、その霧の中には、未完の約束がもたらす切なさが漂っていた。少女は、今日訪れる魂が、生前に果たせなかった約束を抱えた者であることを感じ取った。その未完の思いが彼をこの地に縛りつけているのだろう。
「今日やってくる亡者は、叶わなかった約束を抱えた者だ。」
脱衣婆の静かな声が霧の中に響いた。約束――それは人と人との信頼をつなぐものであり、果たされなかった時には重い未練となる。彼がその約束の重みに囚われたままである限り、魂は安らぎを得ることができない。
霧の中から現れたのは、疲れた顔をした中年の男性だった。彼の肩は重そうに落ち込み、その目には深い後悔が宿っていた。彼は、生前に果たすことができなかった約束に縛られ続けていたのだろう。
「彼は、生前に大切な人との約束を果たすことができませんでした。その約束への未練が、彼の魂をここに留めています。」
脱衣婆の説明に、少女は彼の表情をじっと見つめた。彼が抱える未練と後悔の重さが、その魂を深く縛りつけていることが伝わってきた。
「あなたは、どんな約束を果たせずにここに来たのですか?」
少女は静かに問いかけた。彼女の声は優しく、しかしその言葉はまっすぐに男性の心に響いていた。男性はしばらく何も答えず、ただ静かにうつむいていたが、やがてかすれた声で話し始めた。
「私は……息子に約束をしたんだ……いつか一緒に山に登ろう、と……彼はそれを楽しみにしていて、ずっとその日を待っていた……でも、私は仕事や忙しさを理由に、その約束を先延ばしにし続けた……そして、彼が事故で亡くなってしまった……もう、二度とその約束を果たすことができなくなった……」
彼の言葉には、深い後悔と哀しみが込められていた。彼は、生前に息子との大切な約束を果たすことができず、その未練に囚われていたのだ。
「あなたが抱えていたのは、息子との約束を果たせなかった後悔と、その未完の思いに囚われた苦しみだったのですね。」
少女はさらに問いかけた。彼がその約束にどれほどの思いを抱き続け、何を感じてきたのかを理解するために、慎重に言葉を選んだ。
「そうだ……私は彼に、もっと多くの時間を与えるべきだった……もっと一緒にいるべきだった……そのことを後悔しても、もう何も変えることはできない……私は彼を失い、そして自分の約束を果たせなかった……」
彼の声は震えており、その言葉には深い孤独と無力感が感じられた。彼は、果たせなかった約束が自分の心を蝕む鎖になっていることを理解していたのだ。
「約束が果たせなかったとしても、その思いはあなたの中に生き続けています。あなたがその思いを胸に抱き、彼との絆を心の中で紡ぎ直すことで、魂は救われるでしょう。約束は果たす形だけでなく、思いの中で果たすこともできます。」
少女は彼に向かって静かに語りかけた。彼がその後悔を昇華し、息子との約束を心の中で果たすことで、魂の救いを見出せるようにと、優しく言葉を紡いだ。
「でも……私はもう彼に何もしてあげられない……それなのに、どうやって約束を果たせばいいのか……」
彼の声は弱々しく、その言葉には深い無力感と後悔が込められていた。彼は、約束を果たせなかった自分を責め続けていたのだ。
「あなたがその約束を心の中で守り、彼の思いを未来に繋ぐことで、その約束は果たされるでしょう。あなたの中にある愛と悔いが、彼とあなたを永遠に結びつけます。彼との絆は、思いの中で永遠に生き続けるのです。」
少女は彼に向かって優しく微笑んだ。その微笑みには、彼が息子との約束を心の中で果たし、魂を癒す力を得られるようにとの祈りが込められていた。
「そうか……私は彼との約束を、思いの中で果たすことができるのかもしれない……彼と山を登る夢を、心の中で叶えることで、彼も喜んでくれるだろうか……」
彼の言葉には、ほんのわずかに希望が感じられた。彼は、果たせなかった約束を思いの中で実現することで、息子との絆を再び感じようとしていた。
「あなたの心にあるその約束は、息子の思いと共に永遠に生き続けます。その思いを大切に抱き続けることで、魂は安らぎを得るでしょう。」
少女は彼に対して力強く語りかけた。彼がその後悔を超え、息子との絆を心の中で紡ぎ直す力を得られるようにと、心を込めて言葉を紡いだ。
しばらくの間、彼は何も言わずに立ち尽くしていたが、やがて顔を上げた。その目には、わずかに希望の光が宿り始めていた。
「私は……その道を選びたい……息子との約束を心の中で果たし、彼と共に歩む未来を思い描きたい……」
彼の言葉に、少女は微笑んだ。彼が果たせなかった約束を思いの中で果たし、それを力に変える道を選んだことに、少女は安堵した。
「よろしい。あなたが選んだその道が、あなたの魂を救うことになるでしょう。」
脱衣婆が静かに告げると、霧の中から一筋の光が差し込み、彼の姿を包み込んだ。彼の表情は次第に穏やかになり、息子との絆を胸に抱いたその顔には、ようやく安らぎが訪れた。
「ありがとう……」
彼の最後の言葉が、少女の耳に届いた。やがて、彼の姿は光の中に溶け込んでいった。
「今日の裁きから、何を学びましたか?」
脱衣婆が静かに問いかけた。少女はしばらく考え、静かに答えた。
「果たせなかった約束も、心の中で守り続けることで絆を感じることができます。その思いを未来に繋げることで、魂は救われるのだと学びました。」
脱衣婆は満足そうに頷き、次の亡者がやってくる準備を整えた。少女もまた、その言葉を胸に刻み込み、次なる裁きに向けて心を整えた。
霧が再び立ち込め、次の魂が訪れる予感が漂ってきた。少女はその静かな風を感じながら、今日の裁きがもたらした教訓を胸に、次なる試練に備えて心を引き締めた。
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