第32話 未練の絆
三途の川のほとりは、今日はいつも以上に静寂に包まれていた。霧が一層濃く、川面を覆うかのように漂っている。少女は、今日訪れる魂が抱えている感情がどこか複雑で、深く心に絡みついているような感覚を感じていた。それは、未練――断ち切れない絆が、亡者の魂をこの地に縛り付けているように感じられた。
「今日やってくる亡者は、未練に囚われた者だ。」
脱衣婆の言葉が静かに響く。未練――それは、過去の出来事や人との繋がりを手放せずに心の中に留まり続ける感情だ。未練が強いと、魂はその絆に縛られ、前に進むことができなくなる。亡者たちはその未練を抱えたまま、永遠に過去を求め続けることになる。
霧の中から現れたのは、中年の男性だった。彼の目は何かを追い求めるように揺れ、彼の表情には深い哀しみが刻まれていた。まるで取り戻せない何かに固執し続け、それを手放すことができずにいるかのような、哀れな姿であった。
「彼は、生前に大切な人との別れを経験し、その未練に囚われて生き続けました。彼はその別れを受け入れることができず、その絆に縛られ続けたまま、この地にたどり着きました。」
脱衣婆の言葉に、少女は彼の表情をじっと見つめた。彼が抱える未練の重さが、その魂を深く縛り付け、今もなおその絆に囚われていることが伝わってきた。
「あなたは、どんな未練を抱えてここに来たのですか?」
少女は静かに問いかけた。彼女の声は優しく、しかししっかりと彼の心に届くように響いていた。男性はしばらく何も答えず、ただ足元を見つめていたが、やがて沈んだ声で話し始めた。
「私は……彼女と別れたくなかった……彼女が逝ってしまってから、私は何もできなかった……あの時、もっと違う道を選んでいれば、彼女を救えたのかもしれない……私は彼女を手放せなかったんだ……」
彼の言葉には、深い後悔と自己嫌悪が込められていた。彼は、愛する人との別れにどうしても向き合うことができず、その未練に囚われ続けてきたのだ。
「あなたは、その未練に囚われ続けていたのですね。」
少女はさらに問いかけた。彼がその未練とどのように向き合い、どのようにそれが彼を縛り付けてきたのかを理解するために、慎重に言葉を選んだ。
「そうだ……私は彼女を救えなかった……彼女を失ってから、私はずっとその時のことを悔やんでいた……もし、あの時もっと早く気づいていれば……もっと彼女を大切にしていれば……」
彼の声は震えており、その言葉には深い後悔と自責の念が感じられた。彼は、愛する人を失ったことでその喪失感に耐えきれず、過去の選択に未練を抱き続けていたのだ。
「未練は、過去の選択に囚われてしまう感情です。しかし、その未練に縛られることで、あなたは前に進むことができなくなります。重要なのは、過去を悔やむのではなく、その未練をどう受け入れ、未来に生かすかです。」
少女は彼に向かって静かに語りかけた。彼がその未練から解放され、前に進むための道を見つけられるようにと、優しく言葉を紡いだ。
「でも……どうやって彼女を手放せばいいんだ……私は彼女を愛していた……あの時の選択を、どうやって忘れることができるんだ……」
彼の声は弱々しく、その言葉には深い無力感と未練が込められていた。彼は、過去に囚われ続け、その感情を手放すことができずにいたのだ。
「愛することは忘れることではありません。愛する人を心に留めながらも、その愛を未来に生かすことで、あなたは前に進むことができます。未練に囚われ続けるのではなく、その愛を力に変えることができるはずです。」
少女は彼に向かって優しく微笑んだ。その微笑みには、彼がその未練を昇華し、前に進むための力を持つことができるようにとの祈りが込められていた。
「でも……私はまだ彼女と一緒にいたい……彼女のことを忘れたくない……」
彼の声には、まだ迷いが残っていたが、その言葉の中にほんのわずかな希望の光が差し始めていた。彼は、過去を手放すことが恐ろしい一方で、その先に何が待っているのかに興味を持ち始めていた。
「あなたが彼女を忘れる必要はありません。彼女の存在を胸に抱きながらも、あなた自身の道を進むことで、彼女との絆は永遠に続くのです。それこそが、あなたにとっても、彼女にとっても、真の救いになるかもしれません。」
少女は彼に対して力強く語りかけた。彼がその未練と向き合い、前に進むための道を選べるようにと、心を込めて言葉を紡いだ。
しばらくの間、彼は何も言わずに立ち尽くしていたが、やがて顔を上げた。その目には、わずかに希望の光が宿り始めていた。
「私は……その道を選びたい……彼女との絆を胸に抱きながら、前に進みたい……」
彼の言葉に、少女は微笑んだ。彼が自らの未練を昇華させ、前に進むことを決意したことに、少女は安堵した。
「よろしい。あなたが選んだその道が、あなたの魂を救うことになるでしょう。」
脱衣婆が静かに告げると、霧の中から一筋の光が差し込み、彼の姿を包み込んだ。彼の表情は次第に穏やかになり、未練を手放したその顔には、ようやく安らぎが訪れた。
「ありがとう……」
彼の最後の言葉が、少女の耳に届いた。やがて、彼の姿は光の中に溶け込んでいった。
「今日の裁きから、何を学びましたか?」
脱衣婆が静かに問いかけた。少女はしばらく考え、静かに答えた。
「未練は私たちを過去に縛り付ける力を持っていますが、それを昇華させて未来に生かすことで、魂は救われるのだと学びました。」
脱衣婆は満足そうに頷き、次の亡者がやってくる準備を整えた。少女もまた、その言葉を胸に刻み込み、次なる裁きに向けて心を整えた。
霧が再び立ち込め、次の魂が訪れる予感が漂ってきた。少女はその静かな風を感じながら、今日の裁きがもたらした教訓を胸に、次なる試練に備えて心を引き締めた。
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