第28話 失った時間

三途の川の岸辺は、今日も静かな霧に包まれていたが、少女は今日の裁きがこれまでとは違うものになる予感がしていた。風は冷たく、わずかな水音が川から聞こえるだけで、全てが止まっているような不思議な感覚が漂っていた。少女は、目を閉じて心を落ち着けながら、次に訪れる魂がどのような過去を抱えているのかを想像していた。


「今日やってくる亡者は、失われた時間に囚われた者だ。」


脱衣婆の静かな声が響いた。失われた時間――それは、過去に戻りたいという強い願望や、取り戻せない時間を悔やむ感情である。過去を悔やみ、失われたものを取り戻したいという思いに囚われると、人は前に進むことができなくなる。その感情に囚われた魂は、終わりのない後悔の中で彷徨い続けることになる。


霧の中から現れたのは、一人の初老の男性だった。彼の顔には深い皺が刻まれ、その目には取り戻せない過去を追い続ける哀愁が漂っていた。彼の姿は疲れ切っており、まるで長い間重い荷物を背負い続けてきたかのようだった。


「彼は、生前に多くの時間を無駄にし、そのことを深く悔いています。彼は過去に戻り、やり直したいと強く願い続け、その願いに囚われてしまったのです。」


脱衣婆の言葉に、少女は彼の表情をじっと見つめた。彼が抱える失われた時間への執着が、彼の魂を深く縛り付け、今もなおその後悔から逃れられずにいることが伝わってきた。


「あなたは、何をそんなに悔いてここに来たのですか?」


少女は静かに問いかけた。彼女の声は優しく、しかし彼の心にしっかりと届くように響いていた。男性はしばらく何も答えず、ただ地面を見つめていたが、やがてかすれた声で話し始めた。


「私は……大切な時間を無駄にしてしまったんだ……若い頃、家族との時間を蔑ろにし、仕事ばかりに時間を費やしてきた……そして、気づいた時には……家族はもう私のそばにはいなかった……」


彼の言葉には、深い後悔と悲しみが込められていた。彼は、生前に自分の時間を何に費やすべきかを間違え、その結果、最も大切なものを失ってしまったのだ。


「あなたは、その失った時間を取り戻したいと感じているのですね。」


少女はさらに問いかけた。彼がその過去をどう感じ、どのように悔いているのかを理解するために、慎重に言葉を選んだ。


「そうだ……何度も後悔した……もしあの時、家族との時間を大切にしていたら……もし、もっと早く気づいていれば……私はもう一度、あの時間に戻ってやり直したいんだ……」


彼の声には深い虚無感が漂っていた。彼は、過去に戻りたいという強い願望を抱きながらも、それが叶わないことを理解しつつ、その思いから抜け出せずにいたのだ。


「過去に戻ることはできません。しかし、その後悔を抱えたまま前に進むことはできます。過去の過ちを受け入れ、その時間を無駄にしないために、これからどう生きるかが重要なのです。」


少女は彼に向かって静かに語りかけた。彼がその後悔を受け入れ、前に進むための道を見つけられるようにと、優しく言葉を紡いだ。


「でも……私は、もう遅すぎる……家族はもう私のそばにはいない……私は、ただあの頃に戻りたいだけなんだ……」


彼の声は弱々しく、その言葉には深い無力感が込められていた。彼は、自分の過ちがあまりにも大きく、もう取り返しがつかないと感じていたのだ。


「過去を変えることはできません。しかし、あなたがその後悔を受け入れ、それを教訓として前に進むことで、魂は救われるかもしれません。失われた時間を悔やむのではなく、今の自分が何を大切にすべきかを見つめることが大切です。」


少女は彼に向かって優しく微笑んだ。その微笑みには、彼が過去の執着を手放し、今を生きることで魂を救うことができるようにとの祈りが込められていた。


「私は……本当に前に進めるのか……?あの時間を取り戻せない私が……」


彼の声には、わずかながらも希望が含まれていたが、同時にその道の先に何が待っているのかを恐れている様子も見て取れた。


「あなたには、その選択が残されています。過去に囚われることなく、今を大切に生きることで、あなたの魂は救われるのです。失われた時間を嘆くのではなく、これからの時間をどのように過ごすかが、あなたの未来を決めるのです。」


少女は彼に対して力強く語りかけた。彼が自らの後悔と向き合い、前に進むための力を持つことができるようにと、心を込めて言葉を紡いだ。


しばらくの間、彼は何も言わずに立ち尽くしていたが、やがて顔を上げた。その目には、わずかに希望の光が宿り始めていた。


「私は……その道を選びたい……もう、失われた時間に囚われるのはやめたい……今の自分を見つめ、前に進みたい……」


彼の言葉に、少女は微笑んだ。彼が自らの過去を手放し、前に進むことを決意したことに、少女は安堵した。


「よろしい。あなたが選んだその道が、あなたの魂を救うことになるでしょう。」


脱衣婆が静かに告げると、霧の中から一筋の光が差し込み、彼の姿を包み込んだ。彼の表情は次第に穏やかになり、失われた時間への執着を手放したその顔には、ようやく安らぎが訪れた。


「ありがとう……」


彼の最後の言葉が、少女の耳に届いた。やがて、彼の姿は光の中に溶け込んでいった。


「今日の裁きから、何を学びましたか?」


脱衣婆が静かに問いかけた。少女はしばらく考え、静かに答えた。


「失われた時間に囚われることは誰にでもありますが、過去を悔やみ続けることで魂は縛られます。重要なのは、過去を受け入れ、今を生きることだと学びました。」


脱衣婆は満足そうに頷き、次の亡者がやってくる準備を整えた。少女もまた、その言葉を胸に刻み込み、次なる裁きに向けて心を整えた。


霧が再び立ち込め、次の魂が訪れる予感が漂ってきた。少女はその静かな風を感じながら、今日の裁きがもたらした教訓を胸に、次なる試練に備えて心を引き締めた。

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