第39話 嘘という鎖
三途の川のほとりは、今日も冷たい霧が立ち込め、しんと静まり返っていた。霧の中から時折聞こえる水音に混じって、どこか歪んだ気配が漂っている。少女は、今日訪れる魂が自らのついた嘘によって苦しんでいることを感じ取っていた。嘘を重ねたその心が、真実を見失って迷い込んでしまった魂だった。
「今日やってくる亡者は、嘘によって自らを縛った者だ。」
脱衣婆の静かな声が霧の中に響いた。嘘――それは、人を守るためのものであることもあれば、自分を守るためのものでもある。しかし、嘘が積み重なると、やがて真実がわからなくなり、自らを欺き続ける鎖となる。嘘に囚われた魂は、その偽りに縛られ、真実を見失ったまま彷徨い続ける。
霧の中から現れたのは、中年の女性だった。彼女の目には戸惑いと恐れが浮かんでおり、その表情はどこか怯えているようだった。彼女は、真実と向き合うことができず、嘘を重ね続けてきた。その結果、自分が本当に何を信じていたのかさえも見失ってしまっていたのだ。
「彼女は、生前に幾度も嘘をつき続けました。その嘘は、時に誰かを守るためであり、また時に自分を守るためでもありました。しかし、積み重なった嘘に自らが囚われ、その嘘が彼女をこの地に導いたのです。」
脱衣婆の説明に、少女は彼女の表情をじっと見つめた。彼女が抱える嘘の重みが、その魂を深く縛りつけ、今もなおその偽りの鎖に囚われていることが伝わってきた。
「あなたは、どんな嘘に囚われてここに来たのですか?」
少女は静かに問いかけた。彼女の声は優しく、しかしその言葉はまっすぐに女性の心に届くように響いていた。女性はしばらく何も答えず、ただ霧の中を見つめていたが、やがてかすれた声で話し始めた。
「私は……家族にも、友人にも、たくさんの嘘をついた……自分をよく見せるために、誰にも迷惑をかけたくないと嘘を重ねた……でも、気づけば、嘘が私を追い詰め、真実が見えなくなってしまった……」
彼女の言葉には、深い悔恨と虚しさが込められていた。彼女は、自らの嘘に囚われ、それが重荷となって自分自身を見失ってしまったのだ。
「あなたが抱えていたのは、真実と偽りの間で揺れる心だったのですね。」
少女はさらに問いかけた。彼女がその嘘をどのように感じ、どれほどの苦しみを抱えてきたのかを理解するために、慎重に言葉を選んだ。
「そう……最初は小さな嘘だった……でも、嘘を隠すためにさらに嘘を重ね、ついには自分でも何が真実なのか分からなくなった……私は、本当の自分を見失ったままここに来た……」
彼女の声は震えており、その言葉には深い自己嫌悪が感じられた。彼女は、偽りで築き上げた自分が、真実を遠ざけ、自らを縛り続けたことに気づいていた。
「嘘は、一時の逃げ道になることもあります。しかし、嘘に囚われ続けると、魂は真実を見失い、自分自身も見えなくなってしまいます。あなたがその偽りから解放され、真実と向き合うことで、魂は救われるかもしれません。」
少女は彼女に向かって静かに語りかけた。彼女がその偽りの鎖から解放され、自らの真実と向き合えるようにと、優しく言葉を紡いだ。
「でも……私は、どの顔が本当の私なのか分からない……本当の自分がどこにいるのかさえ、もう分からなくなってしまった……」
彼女の声は弱々しく、その言葉には深い無力感が込められていた。彼女は、重ね続けた嘘によって自分自身を見失い、その真実を見つける術さえも失っていたのだ。
「あなたが偽りを重ね続けたとしても、心の奥底には真実のあなたが眠っています。嘘をひとつひとつ手放し、自分の本当の気持ちに向き合うことで、あなたの魂は救われるでしょう。」
少女は彼女に向かって優しく微笑んだ。その微笑みには、彼女が嘘を手放し、真実の自分と向き合うことで魂を救うことができるようにとの祈りが込められていた。
「でも……もし真実の私が、嘘のように弱く、何もない存在だったら……私はそれを受け入れられるのだろうか……」
彼女の声には、まだ迷いが残っていたが、その奥にはわずかに希望の光が宿り始めていた。彼女は、自らが嘘を手放すことで見つける自分を恐れる一方で、真実の自分に向き合いたいという思いも抱き始めていたのだ。
「真実のあなたがどのような姿であっても、それがあなたの本当の姿であり、その中にあなたの強さや優しさが眠っています。偽りの鎖を解き放ち、あなた自身を見つけることで、魂は自由になれるのです。」
少女は彼女に対して力強く語りかけた。彼女が嘘の鎖を解き、真実の自分と向き合う道を選べるようにと、心を込めて言葉を紡いだ。
しばらくの間、彼女は何も言わずに立ち尽くしていたが、やがて顔を上げた。その目には、わずかに希望の光が宿り始めていた。
「私は……その道を選びたい……嘘を手放し、本当の自分を見つけたい……」
彼女の言葉に、少女は微笑んだ。彼女が自らの嘘を手放し、前に進むことを決意したことに、少女は安堵した。
「よろしい。あなたが選んだその道が、あなたの魂を救うことになるでしょう。」
脱衣婆が静かに告げると、霧の中から一筋の光が差し込み、彼女の姿を包み込んだ。彼女の表情は次第に穏やかになり、嘘の鎖を手放したその顔には、ようやく安らぎが訪れた。
「ありがとう……」
彼女の最後の言葉が、少女の耳に届いた。やがて、彼女の姿は光の中に溶け込んでいった。
「今日の裁きから、何を学びましたか?」
脱衣婆が静かに問いかけた。少女はしばらく考え、静かに答えた。
「嘘は私たちを守ることもありますが、重ねすぎると真実を見失い、自分を縛ります。偽りを手放し、本当の自分と向き合うことで、魂は救われるのだと学びました。」
脱衣婆は満足そうに頷き、次の亡者がやってくる準備を整えた。少女もまた、その言葉を胸に刻み込み、次なる裁きに向けて心を整えた。
霧が再び立ち込め、次の魂が訪れる予感が漂ってきた。少女はその静かな風を感じながら、今日の裁きがもたらした教訓を胸に、次なる試練に備えて心を引き締めた。
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