第38話 叶わなかった夢
三途の川の岸辺は、今日も深い霧に包まれていたが、その霧の中に漂う気配はいつもと異なり、どこか儚さを感じさせた。少女は、今日訪れる魂が強く追い求めていたが叶わなかった夢に囚われた者であることを感じ取った。達成できなかった夢は時に未練を残し、魂を縛りつけ、次なる道へ進むことを困難にさせる。
「今日やってくる亡者は、叶わなかった夢に囚われた者だ。」
脱衣婆の静かな声が霧の中に響いた。叶わなかった夢――それは人の心に深い影を落とし、未練を残し続けるものだ。成し遂げられなかった願望は、過去の思い出を輝かせる一方で、魂を縛り、前へ進むことを妨げる重荷となることもある。
霧の中から現れたのは、若い男性だった。彼はまっすぐな目をしており、その瞳にはかつての情熱が微かに残っているように見えたが、その表情には諦めと虚無感が混じっていた。彼は、夢を追い求めていたが、その夢が果たせずにここへ辿り着いたのだ。
「彼は、生前に大きな夢を持ち、それを成し遂げるためにすべてを捧げました。しかし、夢は叶わず、その未練が彼をここに導いたのです。」
脱衣婆の言葉に、少女は彼の表情をじっと見つめた。彼が抱える夢の重さが、その魂を深く縛りつけ、今もなおその夢に囚われていることが伝わってきた。
「あなたは、どんな夢を抱えてここに来たのですか?」
少女は静かに問いかけた。彼女の声は優しく、しかしその言葉は深く男性の心に響くように配慮されていた。男性はしばらく何も答えず、ただ遠くを見つめていたが、やがてかすれた声で話し始めた。
「私は……音楽家になりたかった……人々の心に響くような、美しい音楽を作りたかった……でも、努力してもその才能に届かず、思うような評価も得られなかった……最後は夢だけが残って、現実に疲れ果ててしまった……」
彼の言葉には、深い諦めと虚しさが込められていた。彼は、自らの夢に全てを捧げたが、その夢を果たすことができず、残された未練に縛られてしまったのだ。
「あなたが抱えていたのは、叶わなかった夢への強い思いだったのですね。」
少女はさらに問いかけた。彼がその夢をどのように抱き続け、それがどのように彼を苦しめているのかを理解するために、慎重に言葉を選んだ。
「そうだ……私は、夢に自分のすべてを捧げた……でも、結局その夢に追いつけなかった……ただ、そこに手が届かなかったことが、どうしても受け入れられないんだ……」
彼の声は震えており、その言葉には深い悔しさと諦めが感じられた。彼は、成し遂げられなかった夢に強い未練を抱え、その夢を手放すことができずにいた。
「夢を持つことは素晴らしいことです。しかし、叶わなかった夢に囚われ続けると、あなたの魂は次の道へ進むことができなくなってしまいます。大切なのは、夢があなたに何をもたらし、何を学んだかを見つめ直すことかもしれません。」
少女は彼に向かって静かに語りかけた。彼がその夢の未練から解放され、自らの人生に別の意味を見出せるようにと、優しく言葉を紡いだ。
「でも……私は、その夢だけを見てきた……その夢を手放すことは、私自身を否定するような気がして……」
彼の声は弱々しく、その言葉には深い無力感と執着が込められていた。彼は、夢を失うことで自分自身を失うのではないかという恐れを抱えていたのだ。
「夢を追い求めることはあなたの一部です。しかし、叶わなかったからといって、その経験が無駄になるわけではありません。あなたが夢を通して得た思いや学びを、未来に生かすことで、夢はあなたの中で生き続けるのです。」
少女は彼に向かって優しく微笑んだ。その微笑みには、彼が叶わなかった夢に執着することなく、その夢を未来に活かす道を見つけられるようにとの祈りが込められていた。
「でも……私の夢が叶わなかったことに、どんな意味があるのだろう……」
彼の声には、まだ迷いが残っていたが、その奥にはわずかながらも新しい道を見つけたいという気持ちが宿っているようだった。
「あなたの夢が叶わなかったことにも、必ず意味があるはずです。その夢があなたに何を教え、どんな強さを与えたかを見つめることで、魂は救われます。あなたの夢はあなたの中で生き続け、それが新たな道を照らす光になるのです。」
少女は彼に対して力強く語りかけた。彼が夢の未練から解放され、自分の人生に別の意味を見出し、前に進む道を選べるようにと、心を込めて言葉を紡いだ。
しばらくの間、彼は何も言わずに立ち尽くしていたが、やがて顔を上げた。その目には、わずかに希望の光が宿り始めていた。
「私は……その道を選びたい……夢が叶わなかったとしても、その夢が私に与えたものを、次の誰かに届けたい……」
彼の言葉に、少女は微笑んだ。彼が自らの夢を手放し、前に進むことを決意したことに、少女は安堵した。
「よろしい。あなたが選んだその道が、あなたの魂を救うことになるでしょう。」
脱衣婆が静かに告げると、霧の中から一筋の光が差し込み、彼の姿を包み込んだ。彼の表情は次第に穏やかになり、夢の未練を手放したその顔には、ようやく安らぎが訪れた。
「ありがとう……」
彼の最後の言葉が、少女の耳に届いた。やがて、彼の姿は光の中に溶け込んでいった。
「今日の裁きから、何を学びましたか?」
脱衣婆が静かに問いかけた。少女はしばらく考え、静かに答えた。
「夢は私たちに力を与えますが、叶わなかった夢もまた意味を持ちます。その経験が、他の誰かの助けとなり、魂の救いになることもあると学びました。」
脱衣婆は満足そうに頷き、次の亡者がやってくる準備を整えた。少女もまた、その言葉を胸に刻み込み、次なる裁きに向けて心を整えた。
霧が再び立ち込め、次の魂が訪れる予感が漂ってきた。少女はその静かな風を感じながら、今日の裁きがもたらした教訓を胸に、次なる試練に備えて心を引き締めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます