第23話 執着の鎖

三途の川のほとりは、今日も重い霧に包まれていた。冷たい風が吹き、川面は静かに波打っている。少女は、今日もまた新たな魂を迎え入れるために心を落ち着けた。これまで多くの亡者と向き合い、その魂の奥底に潜む感情と向き合ってきたが、今日の裁きは特に深い感情に囚われた者になるだろうと感じていた。


「今日やってくる亡者は、執着に囚われた者だ。」


脱衣婆の静かな声が霧の中に響いた。執着――それは過去や物事にしがみつき、前に進むことができない感情である。人は時に大切なものや人に執着し、それが行き過ぎると魂を縛り付け、前に進む力を奪ってしまう。


霧の中から現れたのは、年配の男性だった。彼の目は虚ろで、どこか疲れ切った様子があり、その姿は過去にしがみついているように見えた。彼の体は力なく垂れ下がり、まるで重い鎖で縛られているかのように動きが鈍かった。


「彼は、生前に失ったものに執着し続け、その執着が彼の人生を支配していました。そして、その執着が彼を破滅に追い込み、彼はここにたどり着いたのです。」


脱衣婆が静かに語ると、少女は彼の表情をじっと見つめた。彼が抱える執着の重さが、彼の魂を深く縛り付け、今もなおその鎖から逃れられずにいることが明らかだった。


「あなたは、何に執着してここに来たのですか?」


少女は静かに問いかけた。彼女の声は優しく、彼の心の奥に届くように響いていた。男性はしばらく何も答えず、ただ遠くを見つめていたが、やがてかすれた声で話し始めた。


「私は……彼女を……失った。彼女を取り戻したかったんだ……でも、何をしても彼女は戻ってこなかった……」


彼の言葉には深い悲しみと後悔が込められていた。彼は、愛する人を失ったことでその喪失感に囚われ、何もかもがその執着に支配されてしまったのだ。


「あなたは、その喪失から抜け出すことができず、執着し続けていたのですね。」


少女の問いに、男性は力なく頷いた。


「そうだ……彼女がいない世界なんて、意味がなかった……私は彼女を取り戻すために、すべてを犠牲にした……でも、それでも彼女は戻ってこなかった……」


彼の声には絶望が漂っていた。彼は愛する人を失ったことで、自分の人生の意味を見失い、その執着が彼をますます深い闇へと引きずり込んでいったのだ。


「その執着は、あなたを苦しめ続けたのではありませんか?そして、その執着が、あなたの魂を縛り付けていることに気づいていますか?」


少女は彼に向かって静かに語りかけた。彼がその執着を手放し、自由な魂を取り戻すことができるようにと、優しく言葉を選んだ。


「苦しんだ……毎日、彼女を思い出しては、なぜ彼女を守れなかったのかと……自分を責め続けた……そして、その結果、すべてが崩れていったんだ……」


彼の声は弱々しく、その言葉には深い自責の念と虚無感が感じられた。彼は、過去の喪失に執着し続けることで、自分自身を壊してしまったのだ。


「あなたが彼女を愛していたことは、決して無駄なことではありません。しかし、その愛が執着に変わり、あなたの魂を縛り付けることで、彼女もまた救われないのです。」


少女は彼に向かって優しく微笑んだ。その微笑みには、彼が過去の執着を手放し、新たな道を見つけることができるようにとの祈りが込められていた。


「でも……私は……どうすればいい?彼女を忘れるなんてできない……彼女なしでは、生きる意味なんてない……」


彼の声は震えており、その言葉には深い絶望が込められていた。彼は、愛する人を失った喪失感から抜け出すことができず、彼女がいない世界で生きる意味を見つけることができなかったのだ。


「彼女を忘れる必要はありません。しかし、その愛を胸に抱きながらも、あなた自身の魂を解放することが必要です。彼女も、あなたが前に進むことを望んでいるはずです。」


少女の言葉に、彼は少しずつ考え込んだ。彼の目には、まだ深い執着が感じられたが、同時に少女の言葉に何かを感じ取ったようだった。


「私は……彼女を愛し続けながら、前に進むことができるのか……?」


彼の声には、わずかながらも希望が含まれていたが、その道の先に何が待っているのかを恐れている様子も見て取れた。


「あなたには、その選択が残されています。過去に囚われることなく、その愛を胸に抱きながら、前に進むことであなた自身も、そして彼女も救われるのです。」


少女は優しく微笑んだ。彼が自分自身の執着から解放され、愛する人の記憶を抱きながらも前に進むことを選べるように、心を込めて言葉を紡いだ。


しばらくの間、彼は何も言わずに立ち尽くしていたが、やがて顔を上げた。その目には、わずかに希望の光が宿り始めていた。


「私は……その道を選びたい……彼女を思い続けながらも、自分の道を見つけたい……」


彼の言葉に、少女は微笑んだ。彼が自らの執着を手放し、前に進むことを決意したことに、少女は安堵した。


「よろしい。あなたが選んだその道が、あなたの魂を救うことになるでしょう。」


脱衣婆が静かに告げると、霧の中から一筋の光が差し込み、彼の姿を包み込んだ。彼の表情は次第に穏やかになり、執着を手放したその顔には、ようやく安らぎが訪れた。


「ありがとう……」


彼の最後の言葉が、少女の耳に届いた。やがて、彼の姿は光の中に溶け込んでいった。


「今日の裁きから、何を学びましたか?」


脱衣婆が静かに問いかけた。少女はしばらく考え、静かに答えた。


「執着は時に愛から生まれるものですが、その愛が執着に変わると、魂を縛り付けてしまう。愛を持ちながらも執着から解放されることで、魂は救われるのだと学びました。」


脱衣婆は満足そうに頷き、次の亡者がやってくる準備を整えた。少女もまた、その言葉を胸に刻み込み、次なる裁きに向けて心を整えた。


霧が再び立ち込め、次の魂が訪れる予感が漂ってきた。少女はその静かな風を感じながら、今日の裁きがもたらした教訓を胸に、次なる試練に備えて心を引き締めた。

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