第3話 失われた記憶の裁き

冷たい風が三途の川の水面を揺らし、朝の霧が濃く立ち込める中、少女はじっと川を見つめていた。日が昇るにつれて、また新たな亡者がここにやってくることを知っていたからだ。前夜、眠れぬまま考え続けたのは、罪と救いの意味だった。なぜ、善を行った者でも裁かれなければならないのか。その答えはまだ、彼女には見えていなかった。


「今日は、少し厄介な者が来るかもしれない。」


脱衣婆の声が少女の思考を断ち切った。彼女は顔を上げ、脱衣婆の表情を伺ったが、いつも通りの冷静さを保っていた。その言葉が意味するところが分からないまま、少女は黙って頷いた。


やがて、霧の中から一人の男が現れた。彼は年老いておらず、むしろ若々しい顔立ちだったが、その目はどこか虚ろで、生気が感じられなかった。彼の歩みは重く、何かを思い出そうとしているかのように、足元を見つめていた。


「この者は、自分が何をしてきたのか覚えていない。」


脱衣婆がそう言うと、少女は驚きの表情を浮かべた。罪を裁くには、その罪が何であったかを知る必要がある。しかし、この男は自分の過去を忘れているのだ。


「どうして、自分の過去を忘れることがあるのでしょうか?」


少女がそう尋ねると、脱衣婆は天秤を持ちながら、ゆっくりと答えた。


「罪の重さがあまりにも大きいと、その重圧から逃れるために、記憶が消えてしまうことがある。しかし、忘れたからといって、その罪が消えるわけではない。彼の魂には、まだその罪の痕跡が残っている。」


脱衣婆は男の衣を慎重に剥ぎ取り、天秤にかけた。天秤が揺れると同時に、少女の心には再び記憶の断片が流れ込んできた。しかし、今回はそれが断片的であり、明確な形を成していなかった。彼の記憶が完全に失われているため、少女にもその罪を完全には感じ取ることができなかったのだ。


「彼の罪は重い。しかし、その詳細が見えない以上、慎重に裁かねばならない。」


脱衣婆は天秤を見つめながら、何かを考えているようだった。少女もまた、何かを見落としているのではないかと感じ、心の奥底で焦燥感が募った。


「思い出すことができれば、救われるのですか?」


少女はそう問いかけた。彼女は、もし彼が自らの罪を思い出し、それを償うことができれば、救いが訪れるのではないかと考えたのだ。


脱衣婆は少女の言葉に一瞬黙り込んだが、やがて静かに答えた。


「思い出すことは重要だ。しかし、それだけでは足りない。罪を償うためには、過去と向き合い、その結果を受け入れる覚悟が必要だ。」


その時、男の目がかすかに動いた。彼の虚ろだった目に、わずかな光が宿ったように見えた。彼は何かを思い出したのだろうか。少女はその変化を感じ取り、期待を込めて彼を見つめた。


「私……何を……したんだ……?」


男の口から、かすかな声が漏れた。それは、彼自身の過去を思い出そうとする、必死の問いかけだった。彼の手が震え、目に涙が浮かんだ。その瞬間、少女の心にまた新たな感覚が押し寄せてきた。それは彼の罪の一部であり、同時に彼がその罪を償うために感じていた後悔と恐怖だった。


「彼が思い出したようだな。」


脱衣婆がそう言うと、天秤が静かに傾いた。それは、彼の罪がようやく形を取り戻した証拠であり、彼がその罪を背負っていく覚悟を決めた瞬間でもあった。


「彼は、重い罪を背負っていた。しかし、その罪を認め、受け入れることができた。」


脱衣婆はそう告げると、男に手を差し伸べた。その手を取ると、男は霧の中から現れた光の道へと導かれた。彼の目には、ほんの少しの安堵が浮かんでいた。


「彼は地獄へ落ちることなく、しばらくこの地で彷徨うだろう。しかし、彼が自らの罪を償うことができれば、やがて救いの光が訪れるだろう。」


脱衣婆は静かに語り、少女に向き直った。少女は、心の中で何かが変わったことを感じていた。罪を忘れ、記憶が失われることの恐ろしさ。そして、思い出すことで救われる可能性があること。


「これからも多くの亡者がやってくる。お前は彼らの罪と向き合い、その重さを測る役割を果たすのだ。」


脱衣婆の言葉に、少女は力強く頷いた。彼女の心には、少しずつだが確かな覚悟が芽生えていた。この地で、罪と救いの間に立つ者としての自分の役割を果たすことを決意したのだった。


朝の霧が少しずつ晴れ、次の亡者が訪れるのを告げるかのように、遠くで風が鳴り始めた。少女は脱衣婆の隣に立ち、その音をじっと聞いていた。

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