第44話 失った機会
三途の川のほとりは、今日も深い霧に包まれていたが、その中には何か取り返しのつかないものを感じさせる寂しさが漂っていた。少女は、今日訪れる魂が、過去に失った機会に囚われていることを感じ取っていた。その失った機会が、彼にとって取り戻せない大切なものであり、それが魂を縛りつけているのだろう。
「今日やってくる亡者は、取り返しのつかない機会を失った者だ。」
脱衣婆の静かな声が霧の中に響いた。失った機会――それは過去に戻れないことを痛感させ、後悔と未練を深く心に刻む。やり直せないという事実が魂に重くのしかかり、いつまでもその瞬間に囚われてしまうことがある。
霧の中から現れたのは、初老の男性だった。彼は力なくうつむき、その表情には長い年月をかけて積み重なった後悔と虚無が刻まれていた。彼はかつて、人生の重要な選択を迫られたが、その選択を誤ったと感じているようだった。
「彼は、生前に人生を大きく変える機会が訪れましたが、その選択を誤ったと悔やみ続けていました。その後悔が彼の心を深く蝕み、ついにはこの地にたどり着いたのです。」
脱衣婆の説明に、少女は彼の表情をじっと見つめた。彼が抱える後悔と未練の重さが、その魂を深く縛りつけ、今もなおその瞬間に囚われ続けていることが伝わってきた。
「あなたは、どんな機会を失ってここに来たのですか?」
少女は静かに問いかけた。彼女の声は優しく、しかしその言葉はまっすぐに男性の心に届くように配慮されていた。男性はしばらく何も答えず、ただ地面を見つめていたが、やがて重い声で話し始めた。
「私は……家族と過ごす機会を失った……仕事ばかりに目を向けて、家族のことを顧みなかった……ようやく気づいた時には、もう彼らはいなかったんだ……私は、自分のエゴで家族を失ったんだ……」
彼の言葉には、深い悔恨と自己嫌悪が込められていた。彼は生前、家族との絆よりも仕事を優先し、その結果、かけがえのない時間と愛する人々を失ってしまったのだ。
「あなたが抱えているのは、家族との大切な時間を失った後悔だったのですね。」
少女はさらに問いかけた。彼がその機会を失ったことにどれほどの痛みを感じ、どれほどの未練を抱えているのかを理解するために、慎重に言葉を選んだ。
「そうだ……私は彼らの成長も、笑顔も、全て見逃してしまった……家族のために働いているつもりだったが、気づいた時には、自分一人だけが取り残されていた……もし、あの時もっと早く気づいていれば……」
彼の声は震えており、その言葉には深い後悔と孤独が感じられた。彼は、家族との大切な時間を失った後、その後悔を抱え続けるしかなかったのだ。
「失った機会は戻りませんが、その後悔を心に刻み、他の誰かにその学びを伝えることで、魂は救われるかもしれません。あなたの思い出や学びが、他の人々の大切な機会を守る力になるのです。」
少女は彼に向かって静かに語りかけた。彼がその未練から解放され、家族への愛と学びを他者に伝えることで自らの魂を救う道を見つけられるようにと、優しく言葉を紡いだ。
「でも……私はもう遅すぎる……家族に償うことはできないし、どんなに後悔しても彼らは戻ってこない……」
彼の声は弱々しく、その言葉には深い無力感が込められていた。彼は、失った時間と機会が戻らないことに苦しんでいたのだ。
「あなたの後悔は、他の人々に大切な気づきをもたらすことができます。あなたの経験が、他の誰かに愛する人と過ごす時間を大切にさせるのならば、それがあなたの魂を救う力になるでしょう。」
少女は彼に向かって優しく微笑んだ。その微笑みには、彼がその後悔を超え、他者に思いを伝えることで、魂を救う力を見つけられるようにとの祈りが込められていた。
「でも……私は彼らに何もしてやれなかった……ただの自己満足のように思えてしまう……」
彼の声には、まだ迷いが残っていたが、その奥にはわずかに他者に何かを伝えたいという思いが見え始めていた。彼は、自らの後悔を通じて誰かを助けたいという気持ちを抱き始めていた。
「あなたの後悔は、他者の心に届き、彼らが失った機会を取り戻せる助けになるかもしれません。自らの学びを誰かに伝えることが、あなたの魂の救いとなるのです。」
少女は彼に対して力強く語りかけた。彼がその未練を胸に抱きながらも、他者にその思いを伝える力を持てるようにと、心を込めて言葉を紡いだ。
しばらくの間、彼は何も言わずに立ち尽くしていたが、やがて顔を上げた。その目には、わずかに希望の光が宿り始めていた。
「私は……その道を選びたい……誰かに伝えられるのなら、私の後悔も無駄ではないかもしれない……」
彼の言葉に、少女は微笑んだ。彼がその後悔を胸に抱きつつも、他者に伝えることで救いを見つけようと決意したことに、少女は安堵した。
「よろしい。あなたが選んだその道が、あなたの魂を救うことになるでしょう。」
脱衣婆が静かに告げると、霧の中から一筋の光が差し込み、彼の姿を包み込んだ。彼の表情は次第に穏やかになり、失った機会を超えたその顔には、ようやく安らぎが訪れた。
「ありがとう……」
彼の最後の言葉が、少女の耳に届いた。やがて、彼の姿は光の中に溶け込んでいった。
「今日の裁きから、何を学びましたか?」
脱衣婆が静かに問いかけた。少女はしばらく考え、静かに答えた。
「失った機会に囚われ続けると、自分を縛りつけてしまいますが、その学びを他者に伝えることで、魂は救われるのだと学びました。」
脱衣婆は満足そうに頷き、次の亡者がやってくる準備を整えた。少女もまた、その言葉を胸に刻み込み、次なる裁きに向けて心を整えた。
霧が再び立ち込め、次の魂が訪れる予感が漂ってきた。少女はその静かな風を感じながら、今日の裁きがもたらした教訓を胸に、次なる試練に備えて心を引き締めた。
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