第54話 信じることへの恐れ
三途の川のほとりには、いつにも増して濃い霧が立ち込め、冷たい風が肌を刺すように吹いていた。その霧の中には、何かに怯え、恐れ続けた魂の気配が感じられた。少女は、今日訪れる魂が、生前に他者を信じることを恐れてきた者であることを感じ取った。その恐れが彼を縛りつけ、孤独に囚われ続けさせていたのだろう。
「今日やってくる亡者は、他者を信じることを恐れてきた者だ。」
脱衣婆の低い声が霧の中に響いた。信じること――それは人と人との絆をつなぐ大切な行為だが、同時に裏切りや傷つきへの恐怖を伴うものでもある。その恐怖が深まりすぎると、魂は自らを孤独に閉ざし、救いの道を見失うことがある。
霧の中から現れたのは、細身の若い女性だった。彼女の目は怯えたようにきょろきょろと動き、どこかに逃げ場を探しているようだった。その姿は、長い間信じることに恐れ続け、心を閉ざしてきたことを物語っていた。
「彼女は、生前に他者を信じることを恐れ、そのために多くの絆を断ち切ってしまいました。その恐れが彼女の魂を縛りつけ、ここに導いたのです。」
脱衣婆の説明に、少女は彼女の姿をじっと見つめた。彼女が抱える恐れと孤独の重さが、その魂を深く縛りつけ、今もなお信じることへの恐れに囚われていることが伝わってきた。
「あなたは、なぜ他者を信じることを恐れたのですか?」
少女は静かに問いかけた。彼女の声は優しく、しかしその言葉はまっすぐに女性の心に響いていた。女性はしばらく何も答えず、ただ足元を見つめていたが、やがて震える声で話し始めた。
「私は……信じて裏切られるのが怖かった……家族も、友達も、私のことを何度も傷つけた……だから、誰も信じない方が楽だと思ったんだ……でも……そのせいで私は一人になってしまった……」
彼女の言葉には、深い傷と孤独が込められていた。彼女は、人を信じることで何度も裏切られた経験を持ち、その恐れが彼女を孤独へと追い込んでしまったのだ。
「あなたが抱えていたのは、信じることで傷つく恐れと、それによって孤独に囚われた悲しみだったのですね。」
少女はさらに問いかけた。彼女がその恐れにどれほど囚われ、何を感じてきたのかを理解するために、慎重に言葉を選んだ。
「そう……私は誰も信じられなかった……信じてしまえば、また裏切られるのだから……それが怖くて、誰とも心を開かない方が安全だと思った……でも……本当に怖かったのは……一人でいることだったのかもしれない……」
彼女の声は震えており、その言葉には深い後悔と哀しみが感じられた。彼女は、人を信じることを恐れ続けた結果、自ら孤独を選び取ってしまったことを悔いていたのだ。
「信じることは確かに勇気が必要ですが、その信じる心が絆を生み出し、孤独を癒す力を持っています。誰かを信じることを恐れないでください。その勇気が、あなたの魂を救う道となるかもしれません。」
少女は彼女に向かって静かに語りかけた。彼女がその恐れを克服し、信じる心を取り戻すことで魂の救いを見出せるようにと、優しく言葉を紡いだ。
「でも……私はもう遅い……信じるべき人たちはみんな私の元を去ってしまった……私が信じられなかったせいで……」
彼女の声は弱々しく、その言葉には深い無力感と後悔が込められていた。彼女は、自分が人を信じることを恐れた結果、周囲の人々を遠ざけてしまったことに対する虚しさを感じていたのだ。
「信じることが遅すぎることはありません。あなたの中に芽生えたその思いが、新たな絆を生むきっかけとなるかもしれません。たとえ今、誰もそばにいなくても、あなたが信じる心を持ち続けることで、新しい道が開けるでしょう。」
少女は彼女に向かって優しく微笑んだ。その微笑みには、彼女が信じる心を取り戻し、孤独を越えて新たな絆を見つけられるようにとの祈りが込められていた。
「そうか……私が信じる心を失わなければ……まだ間に合うのかもしれない……誰かと心を通わせることができるのかもしれない……」
彼女の言葉には、ほんのわずかながら希望が感じられた。彼女は、信じることへの恐れを克服し、新たな絆を見つける可能性に気づき始めていた。
「信じる心があなたの孤独を癒し、新たな絆を結ぶ力となります。誰かを信じることの喜びが、あなたの魂を解放し、安らぎを与えるでしょう。」
少女は彼女に対して力強く語りかけた。彼女がその恐れを克服し、信じる勇気を持てるようにと、心を込めて言葉を紡いだ。
しばらくの間、彼女は何も言わずに立ち尽くしていたが、やがて顔を上げた。その目には、わずかに希望の光が宿り始めていた。
「私は……その道を選びたい……信じることを恐れずに、新しい絆を見つけたい……」
彼女の言葉に、少女は微笑んだ。彼女が信じる心を取り戻し、孤独を越えて前に進むことを決意したことに、少女は安堵した。
「よろしい。あなたが選んだその道が、あなたの魂を救うことになるでしょう。」
脱衣婆が静かに告げると、霧の中から一筋の光が差し込み、彼女の姿を包み込んだ。彼女の表情は次第に穏やかになり、その信じる勇気を取り戻したその顔には、ようやく安らぎが訪れた。
「ありがとう……」
彼女の最後の言葉が、少女の耳に届いた。やがて、彼女の姿は光の中に溶け込んでいった。
「今日の裁きから、何を学びましたか?」
脱衣婆が静かに問いかけた。少女はしばらく考え、静かに答えた。
「信じることは、孤独を癒し、絆を生み出す力を持っています。たとえ恐れがあっても、その勇気が魂を救うのだと学びました。」
脱衣婆は満足そうに頷き、次の亡者がやってくる準備を整えた。少女もまた、その言葉を胸に刻み込み、次なる裁きに向けて心を整えた。
霧が再び立ち込め、次の魂が訪れる予感が漂ってきた。少女はその静かな風を感じながら、今日の裁きがもたらした教訓を胸に、次なる試練に備えて心を引き締めた。
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