第16話 喪失の彼方に
三途の川の岸辺に立つ少女は、今日もまた新たな魂を迎える準備をしていた。これまで数多くの亡者と対話し、その魂を導いてきたが、心の中には常に新たな挑戦への緊張感が残っていた。今日、彼女が迎える亡者は特に深い悲しみを抱えているように感じられた。
「今日やってくる亡者は、喪失の痛みに囚われている者だ。」
脱衣婆の言葉が、静かに霧の中に響いた。喪失――それは愛するものを失うこと、そしてその痛みから逃れられず、魂が苦しみに縛られることを意味していた。少女はその亡者が、どれほどの喪失を抱えているのかを感じ取りながら、心を整えた。
やがて、霧の中から一人の女性が姿を現した。彼女は、まだ若いが、その顔には深い悲しみが刻まれていた。目は虚ろで、どこか遠くを見つめているように感じられた。彼女の姿は、まるで魂そのものが喪失の痛みによって削られてしまったかのようだった。
「彼女は、生前に最愛の者を失い、その悲しみから抜け出すことができなかった。そして、その喪失感に囚われたまま、この世を去った。」
脱衣婆の言葉に、少女は彼女の表情をじっと見つめた。彼女が抱える悲しみの重さを理解し、その魂が救いを求めているのか、それとも喪失に囚われたままなのかを確かめるために、慎重に言葉を選んだ。
「あなたは、誰を失ったのですか?」
少女は静かに問いかけた。彼女の声は優しく、女性の心に寄り添うような響きを持っていた。女性はしばらく何も答えず、ただ地面を見つめていたが、やがてかすれた声で口を開いた。
「私は……彼を……私のすべてだった人を失った……」
彼女の声には、深い痛みが滲んでいた。彼女が愛していた人物を失い、その喪失感が彼女の心を深く傷つけていることが明らかだった。
「あなたは、その喪失の痛みにずっと囚われていたのですね。」
少女はさらに問いかけた。彼女の魂が、喪失の悲しみから解放されるための手がかりを見つけることができるようにと、彼女は優しく語りかけた。
「彼がいなくなってから、私は何も感じなくなった……すべてが色を失ったの……彼なしでは生きていけなかった……」
彼女の言葉には、深い絶望が込められていた。彼女は愛する者を失ったことで、自らの存在意義を見失い、生きる力を失ってしまったのだ。
「その喪失感は、確かにあなたにとって大きな痛みだったでしょう。しかし、あなたの魂はその痛みを抱えたままでいいのでしょうか?」
少女の問いかけに、女性は再び沈黙した。彼女の目には、まだ喪失の痛みが深く刻まれていたが、その言葉に何かを感じ取ったように見えた。
「私は……彼を忘れることなんてできない……彼が私にとってどれほど大切だったか……」
彼女の声は震えていた。彼女は、その喪失が自分の中でどれほど大きな意味を持っていたのかを理解しつつも、その痛みから逃れることができずに苦しんでいた。
「忘れることと、前に進むことは違います。あなたが彼を愛していたことは変わりません。しかし、その愛を抱えたまま、あなたは新たな道を歩むことができるのです。」
少女は、彼女の魂が喪失に囚われることなく、その先に進む道があることを伝えようとした。彼女がその愛を否定するのではなく、それを胸に秘めて新たな未来を選ぶことができるようにと願いながら、言葉を紡いだ。
「でも……彼がいない世界で、私はどうやって生きていけばいいの……」
彼女の声は弱々しく、その問いには深い孤独と悲しみが込められていた。彼女は、最愛の者を失ったことで、自分の存在価値を見失ってしまっていたのだ。
「あなたが彼を失った痛みは、決して無意味なものではありません。しかし、その痛みを乗り越えることで、彼との思い出を胸に新たな道を見つけることができるのです。」
少女は彼女に向かって優しく微笑んだ。その微笑みには、彼女が自分自身を再び見つけ出すための希望が込められていた。
「私は……そんな道を歩めるのかしら……」
彼女の声には、わずかながらも希望が含まれていたが、同時にその道の先に何が待っているのかを恐れている様子も見て取れた。
「あなたには、その選択ができます。喪失の痛みを抱えたまま、未来に進むことができるのです。彼の記憶を大切にしながらも、あなた自身の人生を見つけることができるでしょう。」
少女の言葉に、女性の目には少しずつ光が戻り始めた。彼女の心の中で、喪失の痛みを乗り越えるための決意が生まれつつあるように見えた。
「私は……彼を忘れたくない……でも、前に進むことを選びたい……」
彼女の言葉には、決意と希望が込められていた。彼女は、最愛の者を失った痛みを抱えながらも、その先にある新たな道を歩む覚悟を決めたのだ。
「よろしい。あなたが選んだその道が、あなたの魂を救うことになるでしょう。」
脱衣婆が静かに告げると、霧の中から一筋の光が差し込み、彼女の姿を包み込んだ。彼女の表情は次第に穏やかになり、喪失の痛みを乗り越えたその顔には、ようやく安らぎが訪れた。
「ありがとう……」
彼女の最後の言葉が、少女の耳に届いた。やがて、彼女の姿は光の中に溶け込んでいった。
「今日の裁きから、何を学びましたか?」
脱衣婆が静かに問いかけた。少女はしばらく考え、静かに答えた。
「喪失の痛みは深いものですが、その痛みを抱えながらも未来に進むことができる。そして、愛は消えないけれど、その愛を持って新しい道を選ぶことが救いにつながるのだと。」
脱衣婆は満足そうに頷き、次の亡者がやってくる準備を整えた。少女もまた、その言葉を胸に刻み込み、次なる裁きに向けて心を整えた。
霧が再び立ち込め、次の魂が訪れるのを告げるかのように、静かな風が吹き始めた。少女はその風の音を聞きながら、今日の裁きがもたらした教訓を胸に、次なる試練に向けて心を引き締めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます