第36話 母の祈り

三途の川のほとりは、今日も深い霧に包まれていたが、いつもとは違う温かさが感じられた。それは、どこか切なくも優しい感情が漂っているような雰囲気だった。少女は、今日訪れる魂が抱える思いが特別なものであると感じ取っていた。それは、母のような深い愛情――しかし、その愛情が苦しみに変わり、魂を縛りつけているのだろう。


「今日やってくる亡者は、母としての愛に囚われた者だ。」


脱衣婆の静かな声が霧の中に響いた。母の愛――それは強く、無償で、時に全てを捧げるような深い感情である。しかし、過剰な愛情や心配が執着へと変わり、逆に相手を縛り、自分自身を苦しめることもある。母としての愛が過剰に働いた結果、救いのない執着に変わると、それは魂を永遠に縛り付けてしまう。


霧の中から現れたのは、年老いた女性だった。彼女の表情は穏やかで優しげだったが、その目には深い悲しみと切なさが宿っていた。彼女は、生前に母として深い愛を注ぎ続けたが、その愛が執着へと変わり、今もなお解き放たれずにいるようだった。


「彼女は、生前に子供をとても愛していました。しかし、その愛があまりにも強く、彼女自身を縛りつけてしまいました。彼女はその愛を手放すことができず、ついにこの地にたどり着いたのです。」


脱衣婆が静かに説明すると、少女は彼女の表情をじっと見つめた。彼女が抱える愛情の重さが、その魂を深く縛りつけ、今もなおその執着に囚われていることが伝わってきた。


「あなたは、どんな思いを抱えてここに来たのですか?」


少女は静かに問いかけた。彼女の声は優しく、しかしその言葉は深く女性の心に届くように響いていた。女性はしばらく何も答えず、ただ目を伏せていたが、やがて涙を浮かべながら話し始めた。


「私は……子供を守りたかった……何があっても、あの子を幸せにしたかった……だから、ずっとあの子のことだけを考えてきた……でも、気づけば、あの子の自由を奪ってしまっていた……」


彼女の言葉には、深い後悔と自己嫌悪が込められていた。彼女は、生前に子供を思うあまり、その愛情が過剰になり、結果的に子供を苦しめてしまったことを悔いていたのだ。


「あなたが抱えていたのは、深い愛情だったのですね。」


少女はさらに問いかけた。彼女がその愛情をどのように感じ、どうしてそれが執着に変わってしまったのかを理解するために、慎重に言葉を選んだ。


「そう……私はただ、あの子が幸せでいてくれれば、それで良かった……でも、いつの間にか、あの子のためにという言葉が、自分の安心のために変わっていた……私は、自分が正しいと思い込んで、あの子を縛りつけてしまった……」


彼女の声は震えており、その言葉には深い悔恨と悲しみが感じられた。彼女は、自らの愛情が子供を守るものであると信じていたが、それが次第に執着へと変わり、子供の自由を奪ってしまったことに気づいていた。


「愛することは大切なことです。しかし、時にその愛が執着へと変わると、相手も自分も苦しめることになります。愛を昇華させ、相手を自由にすることで、あなたの魂も救われるかもしれません。」


少女は彼女に向かって静かに語りかけた。彼女がその愛情の執着から解放され、子供への真の愛を理解し、魂を救うための道を見つけられるようにと、優しく言葉を紡いだ。


「でも……私はもうあの子を手放せない……あの子がいないと、私は何もできない……」


彼女の声は弱々しく、その言葉には深い無力感と執着が込められていた。彼女は、愛する子供を思うあまり、その存在に囚われ続け、今もなおその執着から抜け出せずにいたのだ。


「愛することは、相手を支配することではありません。相手を自由にし、見守ることこそが、真の愛かもしれません。あなたがその愛を昇華させ、子供への思いを心の中に抱きながらも、彼を自由にしてあげることで、あなた自身も自由になれるのです。」


少女は彼女に向かって優しく微笑んだ。その微笑みには、彼女がその愛情を昇華し、執着から解放されることで魂を救うことができるようにとの祈りが込められていた。


「でも……私はあの子のために生きてきた……あの子を手放したら、私はどうすればいいの……?」


彼女の声には、まだ迷いが残っていたが、その中にはほんのわずかに希望の光が見え始めていた。彼女は、過去の執着を手放すことが怖い一方で、その先に何があるのかを知りたいと感じ始めていたのだ。


「あなたが愛することをやめる必要はありません。愛する子供を心に抱きながらも、その愛を昇華させ、相手を自由にすることができるのです。それこそが、あなたの真の愛の形かもしれません。」


少女は彼女に対して力強く語りかけた。彼女がその愛情を解放し、前に進むための力を持つことができるようにと、心を込めて言葉を紡いだ。


しばらくの間、彼女は何も言わずに立ち尽くしていたが、やがて顔を上げた。その目には、わずかに希望の光が宿り始めていた。


「私は……その道を選びたい……あの子を手放すのではなく、自由にすることで、前に進みたい……」


彼女の言葉に、少女は微笑んだ。彼女が自らの愛を昇華させ、前に進むことを決意したことに、少女は安堵した。


「よろしい。あなたが選んだその道が、あなたの魂を救うことになるでしょう。」


脱衣婆が静かに告げると、霧の中から一筋の光が差し込み、彼女の姿を包み込んだ。彼女の表情は次第に穏やかになり、愛の執着を手放したその顔には、ようやく安らぎが訪れた。


「ありがとう……」


彼女の最後の言葉が、少女の耳に届いた。やがて、彼女の姿は光の中に溶け込んでいった。


「今日の裁きから、何を学びましたか?」


脱衣婆が静かに問いかけた。少女はしばらく考え、静かに答えた。


「愛は強く美しいものですが、それが執着に変わると、相手も自分も苦しめます。真の愛は、相手を自由にし、見守ることにあるのだと学びました。」


脱衣婆は満足そうに頷き、次の亡者がやってくる準備を整えた。少女もまた、その言葉を胸に刻み込み、次なる裁きに向けて心を整えた。


霧が再び立ち込め、次の魂が訪れる予感が漂ってきた。少女はその静かな風を感じながら、今日の裁きがもたらした教訓を胸に、次なる試練に備えて心を引き締めた。

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