第8話 罪なき者の苦悩

三途の川のほとりには、いつものように霧が立ち込め、静かな時間が流れていた。少女はすでに数々の裁きを経験し、それぞれの魂と向き合ってきた。彼女の心には、これまでの経験が少しずつ積み重なり、成長の兆しが見え始めていた。しかし、今日の裁きは、彼女にとってこれまでで最も困難なものとなることを予感させていた。


「今日やってくる亡者は、罪を犯していない者だ。」


脱衣婆が告げた言葉に、少女は困惑した。罪を持たない魂がなぜここに来るのか、その理由がすぐには理解できなかった。


「罪を犯していないのに、なぜ裁かれるのですか?」


少女は脱衣婆に尋ねた。彼女の心には、これまで学んできたことが次々に浮かび上がり、答えを探ろうとした。


「罪を持たない者でも、苦しみや悩みを抱えていることがある。その苦悩が、彼をここに導いたのだ。」


脱衣婆の言葉には深い意味が込められていた。少女はそれを理解しようと努めながら、霧の中に目を凝らした。


やがて、霧の中から一人の若い女性が現れた。彼女は美しく、清らかな顔立ちをしていたが、その表情には深い悲しみが漂っていた。彼女の姿は、まるで透明なガラスのように壊れやすく、今にも崩れ落ちてしまいそうだった。


「この者には、罪はない。しかし、その魂は深い苦悩を抱えている。」


脱衣婆がそう告げると、少女は彼女をじっと見つめた。罪を犯していないにもかかわらず、ここに来るということは、彼女の魂に何か重いものがあるのだと感じた。


「あなたは、なぜここに来たのですか?」


少女は静かに問いかけた。彼女の言葉は優しく、相手の心を開かせようとする温かみが込められていた。


女性はしばらく黙ったままだったが、やがて口を開いた。その声は弱々しく、まるで自分自身の存在を確認するかのように響いた。


「私は……何も悪いことはしていない……でも、私はずっと苦しんでいる……」


彼女の言葉には、深い絶望が滲み出ていた。その苦しみが、彼女をこの地に導いたのだろうか。少女はその苦しみの源を探ろうと、さらに問いかけた。


「その苦しみは、どこから来るのですか?」


少女の問いに、女性は少しの間考え込んだ後、ぽつりぽつりと語り始めた。


「私は……いつも他人のために生きてきた。自分の意志や願いを犠牲にして、家族や友人、周りの人々を喜ばせるために生きてきた。でも、誰も私の本当の気持ちを知ろうとはしなかった……」


その言葉には、深い孤独が込められていた。彼女は罪を犯していないが、自分を犠牲にし続けた結果、心が壊れかけていたのだ。


「あなたは、自分のために生きることができなかったのですね。」


少女は静かに言葉を紡いだ。その言葉は、彼女の心にそっと寄り添い、彼女の苦しみを理解しようとするものだった。


「そう……誰も私を見てくれなかった……私はただの道具のように扱われてきた……」


女性の目に涙が浮かび、その声は震えた。彼女の魂は、罪を持たずとも深い傷を負い、その傷が彼女を苦しめ続けていたのだ。


「あなたの苦しみは、罪ではありません。しかし、その苦しみを乗り越えなければ、あなたの魂は安らぐことができません。」


脱衣婆が静かに告げると、女性は涙を流しながら、その言葉を受け止めた。


「どうすれば、この苦しみから解放されることができるのでしょうか……?」


彼女の声は切実で、まるで救いを求めるような響きがあった。少女は、その問いに答えるべく、しばらく考え込んだ。


「まずは、あなた自身の心を大切にすることが必要です。あなたが他人のために生きるのではなく、あなた自身のために生きることを選ぶことができるようになることが大切です。」


少女の言葉には、彼女自身がこれまで学んできたすべての教訓が込められていた。自らの魂を癒すためには、まず自分を大切にすることが必要であることを、彼女は悟っていた。


「でも、どうやって……?」


女性はまだ不安げな表情を浮かべていた。彼女には、自分自身を大切にするという概念がまだ理解できていなかったのだ。


「それは、少しずつでいいのです。自分を許し、自分の幸せを追求することを許してあげてください。そして、あなたの心の中にある光を見つけて、それに従う勇気を持ってください。」


少女の言葉に、女性は少しずつ理解し始めたようだった。彼女の心には、まだ迷いや恐れが残っていたが、その中には希望の光がわずかに輝き始めていた。


「私は、自分を許すことができるでしょうか……?」


彼女は小さな声で呟いた。その言葉には、まだ不安と恐れが交じっていたが、同時にわずかな希望も感じられた。


「あなたがそう願えば、必ずできます。自分を許し、愛することができれば、あなたの魂は安らぎを見つけることができるでしょう。」


少女は優しく微笑み、彼女を励ました。その微笑みには、これまで学んできたすべての教訓が詰まっていた。


「ありがとう……」


女性の声は少しずつ落ち着きを取り戻し、その姿が霧の中に溶け込むようにして消えていった。彼女の魂がどこへ向かうのかは分からないが、その道には希望の光が差し込んでいるはずだと、少女は信じていた。


「今日の裁きから、何を学びましたか?」


脱衣婆が少女に問いかけた。少女はしばらく黙って考え、やがて静かに答えた。


「罪を持たない者でも、心に傷を抱えることがある。そして、その傷を癒すためには、自分を大切にし、自らの幸せを追求することが必要であると。」


脱衣婆は満足そうに頷き、次の亡者がやってくる準備を整えた。少女もまた、その言葉を胸に刻み込み、次なる裁きに向けて心を整えた。


霧が再び立ち込め、次の魂が訪れるのを告げるかのように、静かな風が吹き始めた。少女はその風の音を聞きながら、今日の裁きがもたらした教訓を胸に、次なる試練に向けて心を引き締めた。

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