第52話 許されなかった夢
三途の川のほとりは、今日も濃い霧に包まれていたが、その霧にはどこか抑圧された夢の香りが漂っていた。少女は、今日訪れる魂が、生前に許されなかった夢に囚われていることを感じ取った。その夢は叶えられることなく封じられたものであり、彼の心の奥底に残った未練が、この地に彼を導いたのだろう。
「今日やってくる亡者は、許されなかった夢を抱えた者だ。」
脱衣婆の静かな声が霧の中に響いた。叶わなかった夢――それは人の心に深い影を落とし、忘れられない未練として残り続けることがある。誰かの期待や社会の枠組みに阻まれて叶わなかった夢は、魂を縛り、自由を奪ってしまうのだ。
霧の中から現れたのは、静かな瞳を持つ初老の男性だった。彼の表情には深い諦めが刻まれていたが、その奥には夢への強い執着と哀しみが見え隠れしていた。彼は生前、何か大きな夢を抱いていたが、それを実現することが許されず、その後悔が彼を縛り続けていたようだった。
「彼は、生前に大きな夢を抱いていましたが、その夢を追いかけることを許されませんでした。彼の心には、叶わなかった夢への強い未練が残っているのです。」
脱衣婆の説明に、少女は彼の表情をじっと見つめた。彼が抱える未練と夢への思いが、その魂を深く縛りつけ、今もなお叶わなかった夢に囚われ続けていることが伝わってきた。
「あなたは、どんな夢を抱えてここに来たのですか?」
少女は静かに問いかけた。彼女の声は優しく、しかしその言葉はまっすぐに男性の心に響いていた。男性はしばらく何も答えず、ただ霧の向こうを見つめていたが、やがて苦しげな声で話し始めた。
「私は……自由になりたかったんだ……ただ、自分の好きなことをして、思うままに生きたかった……でも、家族や周りの期待に縛られ、私の夢は押しつぶされてしまった……生きるためには、他人の期待に応えるしかなかった……そして、気が付けば、夢は遠くに消えていた……」
彼の言葉には、深い悔恨と無力感が込められていた。彼は、生きるために自らの夢を諦め、周りの期待に応えることを選んだが、その代償として自分自身を見失ってしまったのだ。
「あなたが抱えていたのは、叶わなかった夢への強い未練と、他人の期待に応えることで自分を失った悲しみだったのですね。」
少女はさらに問いかけた。彼がその夢にどれほどの思いを抱き続け、何を失ってきたのかを理解するために、慎重に言葉を選んだ。
「そうだ……私の夢は、自由に生きることだった……しかし、家族のために犠牲にし、自分の心を無視し続けてきた……結局、誰も私が何を望んでいたかを知らず、ただの『良い人』として見られただけだった……」
彼の声は震えており、その言葉には深い孤独と自己否定が感じられた。彼は、家族や周囲のために自らを犠牲にしたが、結果として自分の夢も本当の自分も失ってしまったことを後悔していたのだ。
「夢を追い求めることは、あなたの心の自由であり、あなたの本当の価値です。他人の期待ではなく、自分の内なる思いに従って生きることが、魂の救いとなるでしょう。あなたの夢は、今もなお、あなたの心の中に生き続けています。」
少女は彼に向かって静かに語りかけた。彼がその夢を手放すのではなく、再び心に取り戻し、魂の支えとすることで救いを見出せるようにと、優しく言葉を紡いだ。
「でも……私は今さらその夢を実現することもできない……自分の夢に向かって歩む機会はもう失われてしまった……」
彼の声は弱々しく、その言葉には深い無力感と後悔が込められていた。彼は、夢を追い求めるための時間が既に失われてしまったことに、虚しさを感じていたのだ。
「夢を叶えることができなかったとしても、その夢を抱き続け、他の人々の心に夢を伝えることはできます。あなたの夢を通じて、誰かが勇気や希望を見出すことができるなら、それがあなたの魂を救う道となるでしょう。」
少女は彼に向かって優しく微笑んだ。その微笑みには、彼がその夢を他者の中で生き続けさせることで、魂の救いを見出せるようにとの祈りが込められていた。
「そうか……私の夢は、まだ完全に消えていない……誰かがそれを感じ取ってくれるならば、私の夢もまた生き続けることができるのかもしれない……」
彼の言葉には、ほんのわずかながら希望が感じられた。彼は、叶わなかった夢が他者の中で新たに芽生える可能性に気づき始めていた。
「あなたの夢は、他者を通じて生き続けます。その夢が誰かにとっての光となり、あなたがその夢を抱き続けることで、魂は救われるでしょう。」
少女は彼に対して力強く語りかけた。彼がその夢を抱き続け、他者の中にその夢を生かす力を見出せるようにと、心を込めて言葉を紡いだ。
しばらくの間、彼は何も言わずに立ち尽くしていたが、やがて顔を上げた。その目には、わずかに希望の光が宿り始めていた。
「私は……その道を選びたい……自分の夢を他の人々に伝え、彼らの中でその夢を生かしていきたい……」
彼の言葉に、少女は微笑んだ。彼が叶わなかった夢を抱き続け、それを他者の心に届ける道を選んだことに、少女は安堵した。
「よろしい。あなたが選んだその道が、あなたの魂を救うことになるでしょう。」
脱衣婆が静かに告げると、霧の中から一筋の光が差し込み、彼の姿を包み込んだ。彼の表情は次第に穏やかになり、その夢を胸に抱いたその顔には、ようやく安らぎが訪れた。
「ありがとう……」
彼の最後の言葉が、少女の耳に届いた。やがて、彼の姿は光の中に溶け込んでいった。
「今日の裁きから、何を学びましたか?」
脱衣婆が静かに問いかけた。少女はしばらく考え、静かに答えた。
「叶わなかった夢も、他者の中に生き続けることで価値が生まれます。夢が誰かの希望となり、その夢を他者と共有することで、魂は救われるのだと学びました。」
脱衣婆は満足そうに頷き、次の亡者がやってくる準備を整えた。少女もまた、その言葉を胸に刻み込み、次なる裁きに向けて心を整えた。
霧が再び立ち込め、次の魂が訪れる予感が漂ってきた。少女はその静かな風を感じながら、今日の裁きがもたらした教訓を胸に、次なる試練に備えて心を引き締めた。
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