第62話 手放した夢
三途の川のほとりには、今日も霧が濃く立ち込めていた。その中には、諦めた夢の影が漂っているようだった。少女は、今日訪れる魂が、生前に夢を諦めた者であることを感じ取った。その未完の思いが彼をこの地に縛りつけているのだろう。
「今日やってくる亡者は、夢を諦めた者だ。」
脱衣婆の低い声が霧の中に響いた。夢――それは人を突き動かす希望でありながら、時に現実の壁に阻まれて諦めざるを得ないものでもある。その諦めが心に深い影を落とし、魂を縛る鎖になることもある。
霧の中から現れたのは、まだ若い男性だった。彼の目はどこか空虚で、その奥に隠された後悔が透けて見えた。彼は、生前に追い求めた夢を諦めた未練に囚われているようだった。
「彼は、生前に追いかけた夢を諦め、その後悔を抱えたままここに来ました。その夢への未練が、彼の魂をこの地に留めています。」
脱衣婆の説明に、少女は彼の表情をじっと見つめた。彼が抱える未練と後悔の重さが、その魂を深く縛りつけていることが伝わってきた。
「あなたは、どんな夢を諦めてここに来たのですか?」
少女は静かに問いかけた。彼女の声は優しく、しかしその言葉はまっすぐに男性の心に届くように響いていた。男性はしばらく何も答えず、ただ俯いたまま動かなかったが、やがて低い声で話し始めた。
「私は……画家になりたかった……でも、周りの人たちからは現実を見ろと言われ、家族も夢を応援してくれるどころか反対ばかりだった……結局、夢を諦めて、安定した仕事に就いた……だけど、それからの人生はただの惰性でしかなかった……」
彼の言葉には、深い後悔と喪失感が込められていた。彼は、生前に夢を追うことを諦め、それが心に深い傷を残していたのだ。
「あなたが抱えていたのは、夢を諦めた後悔と、その選択がもたらした虚無感だったのですね。」
少女はさらに問いかけた。彼がその夢にどれほどの思いを抱き続け、何を感じてきたのかを理解するために、慎重に言葉を選んだ。
「そうだ……私は夢を追う勇気がなかった……安定を選んでしまった……それが正しい選択だったのかもしれないが、心の中ではずっと後悔していた……あの時、夢を追いかけていれば、もっと違う人生があったのかもしれない……」
彼の声は震えており、その言葉には深い孤独と自己嫌悪が感じられた。彼は、夢を諦めた自分を責め続け、その未練に囚われていたのだ。
「夢を追うことを諦めたとしても、その夢があなたの中で消えることはありません。その思いを胸に抱き続け、それを別の形で生かすことで、魂は救われるでしょう。夢の形は変わっても、その光はあなたの中に生き続けます。」
少女は彼に向かって静かに語りかけた。彼がその後悔を昇華し、夢を別の形で実現する力を見つけることで、魂の救いを見出せるようにと、優しく言葉を紡いだ。
「でも……私はもう遅い……絵を描く時間も情熱も、すべて失ってしまった……」
彼の声は弱々しく、その言葉には深い無力感と喪失感が込められていた。彼は、自分が夢を実現するための時間と力を失ったと感じていたのだ。
「夢を追い続けることができなかったとしても、その夢を他者に伝えることで、その思いは新たな形で生き続けます。あなたの夢は、あなたの中に生き続け、その光が他者を照らす力となるでしょう。」
少女は彼に向かって優しく微笑んだ。その微笑みには、彼が夢を昇華し、それを新たな希望に変える力を見出せるようにとの祈りが込められていた。
「そうか……私の夢は、私の中で消えてしまったわけではないのかもしれない……その思いを誰かに伝えることで、新しい形で生き続けるのかもしれない……」
彼の言葉には、ほんのわずかながらも希望が感じられた。彼は、諦めた夢を新たな形で未来に繋げる可能性を見つけようとしていた。
「あなたの夢は、他者を通じて新たな命を得るでしょう。その夢を大切に抱き続け、それを未来に繋げることで、魂は安らぎを得るのです。」
少女は彼に対して力強く語りかけた。彼がその後悔を超え、夢を新たな希望として未来に繋げる力を得られるようにと、心を込めて言葉を紡いだ。
しばらくの間、彼は何も言わずに立ち尽くしていたが、やがて顔を上げた。その目には、わずかに希望の光が宿り始めていた。
「私は……その道を選びたい……夢を心に抱き続け、それを未来に繋げたい……」
彼の言葉に、少女は微笑んだ。彼が諦めた夢を希望に変える道を選んだことに、少女は安堵した。
「よろしい。あなたが選んだその道が、あなたの魂を救うことになるでしょう。」
脱衣婆が静かに告げると、霧の中から一筋の光が差し込み、彼の姿を包み込んだ。彼の表情は次第に穏やかになり、その夢を胸に抱いたその顔には、ようやく安らぎが訪れた。
「ありがとう……」
彼の最後の言葉が、少女の耳に届いた。やがて、彼の姿は光の中に溶け込んでいった。
「今日の裁きから、何を学びましたか?」
脱衣婆が静かに問いかけた。少女はしばらく考え、静かに答えた。
「夢を諦めたとしても、その思いは心の中に生き続けます。それを未来に繋げることで、魂は救われるのだと学びました。」
脱衣婆は満足そうに頷き、次の亡者がやってくる準備を整えた。少女もまた、その言葉を胸に刻み込み、次なる裁きに向けて心を整えた。
霧が再び立ち込め、次の魂が訪れる予感が漂ってきた。少女はその静かな風を感じながら、今日の裁きがもたらした教訓を胸に、次なる試練に備えて心を引き締めた。
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