第57話 消えない嫉妬

三途の川のほとりは、今日も重々しい霧が立ち込めていた。その霧の中には、燃えるような嫉妬の感情が混じっているのを感じた。少女は、今日訪れる魂が、生前に嫉妬に囚われていたことを感じ取った。その嫉妬が彼を縛りつけ、今も心を燃やし続けているのだろう。


「今日やってくる亡者は、嫉妬に囚われた者だ。」


脱衣婆の冷静な声が霧の中に響いた。嫉妬――それは時に人を突き動かす力になるが、同時に魂を蝕み、苦しみに変わる感情でもある。嫉妬が深すぎれば、自分自身の価値を見失い、他者との比較に囚われるあまり、魂は安らぎを得ることができなくなる。


霧の中から現れたのは、まだ若い男性だった。彼の目には鋭い光が宿り、何かに強い怒りを抱いていることが感じられた。その怒りの奥には、満たされない嫉妬が渦巻いているようだった。


「彼は、生前に他者への嫉妬に苦しみ、その嫉妬が彼の魂を縛りつけています。その感情が彼を蝕み続け、ここへ導きました。」


脱衣婆の説明に、少女は彼の目をじっと見つめた。彼が抱える嫉妬の重さが、その魂を深く縛りつけ、今もなお彼の心を燃やしていることが伝わってきた。


「あなたは、何に嫉妬してここに来たのですか?」


少女は静かに問いかけた。彼女の声は優しく、しかしその言葉はまっすぐに男性の心に届くように響いていた。男性はしばらく何も答えず、ただ鋭い視線を霧の奥に向けていたが、やがて低い声で話し始めた。


「私は……あいつが憎かった……私よりも優れていて、周りから賞賛を受け、すべてを手に入れていた……私はどんなに努力しても、あいつには勝てなかった……そのたびに、私の心は怒りと嫉妬でいっぱいになった……」


彼の言葉には、深い憎しみと無力感が込められていた。彼は、他者との比較に囚われ、自分自身を見失い、嫉妬がすべてを飲み込んでしまったのだ。


「あなたが抱えていたのは、他者への嫉妬と、自分の価値を見失った苦しみだったのですね。」


少女はさらに問いかけた。彼がその嫉妬にどれほど囚われ、何を感じてきたのかを理解するために、慎重に言葉を選んだ。


「そうだ……私は自分のすべてを否定してしまった……あいつと比べるたびに、私は何もかもが劣っていると感じた……自分には価値がないと思い込んでいた……そして、嫉妬が私の心を蝕んでいった……」


彼の声は震えており、その言葉には深い孤独と自己嫌悪が感じられた。彼は、嫉妬が自分自身を蝕む感情であると気づきながらも、それを止めることができなかったのだ。


「嫉妬は他者との比較から生まれるものですが、あなたの価値は他者との違いにあります。他者と比べるのではなく、あなた自身の特別な一面を見つけることで、魂は救われるかもしれません。」


少女は彼に向かって静かに語りかけた。彼がその嫉妬を乗り越え、自分自身の価値を見つけることで魂の救いを見出せるようにと、優しく言葉を紡いだ。


「でも……私は自分が何か特別だなんて思えない……ずっと他人と比べられ、劣っていると感じ続けてきた……」


彼の声は弱々しく、その言葉には深い無力感と後悔が込められていた。彼は、自分が他者に劣っているという思い込みから逃れることができなかったのだ。


「他者との比較ではなく、あなた自身が何を大切にし、何に価値を見出すかが重要です。あなたが自分を愛し、自分の特別な部分に気づくことで、魂は安らぎを得られるでしょう。他者の影ではなく、あなた自身の光を見つけてください。」


少女は彼に向かって優しく微笑んだ。その微笑みには、彼が嫉妬を手放し、自分自身の価値に気づけるようにとの祈りが込められていた。


「そうか……私は他人の影ばかりを見ていた……でも、自分の中にも何か光があるのかもしれない……それを見つけることが、私の救いになるのだろうか……」


彼の言葉には、ほんのわずかながらも希望が感じられた。彼は、他者との比較をやめ、自分自身を見つめ直す道を見つけようとしていた。


「あなたの中には、他者にはない特別な価値があります。その価値を見つけ、育むことで、魂は救われるのです。他者ではなく、あなた自身の光を信じてください。」


少女は彼に対して力強く語りかけた。彼がその嫉妬を手放し、自分自身の価値を見つける力を得られるようにと、心を込めて言葉を紡いだ。


しばらくの間、彼は何も言わずに立ち尽くしていたが、やがて顔を上げた。その目には、わずかに希望の光が宿り始めていた。


「私は……その道を選びたい……嫉妬を手放し、自分自身の光を見つけたい……」


彼の言葉に、少女は微笑んだ。彼が嫉妬を越え、自分自身の価値を見つける道を選んだことに、少女は安堵した。


「よろしい。あなたが選んだその道が、あなたの魂を救うことになるでしょう。」


脱衣婆が静かに告げると、霧の中から一筋の光が差し込み、彼の姿を包み込んだ。彼の表情は次第に穏やかになり、嫉妬から解放されたその顔には、ようやく安らぎが訪れた。


「ありがとう……」


彼の最後の言葉が、少女の耳に届いた。やがて、彼の姿は光の中に溶け込んでいった。


「今日の裁きから、何を学びましたか?」


脱衣婆が静かに問いかけた。少女はしばらく考え、静かに答えた。


「嫉妬は他者との比較から生まれますが、自分自身の価値に気づくことで、魂は救われます。誰もが持つ自分だけの光を見つけることが、救いへの道なのだと学びました。」


脱衣婆は満足そうに頷き、次の亡者がやってくる準備を整えた。少女もまた、その言葉を胸に刻み込み、次なる裁きに向けて心を整えた。


霧が再び立ち込め、次の魂が訪れる予感が漂ってきた。少女はその静かな風を感じながら、今日の裁きがもたらした教訓を胸に、次なる試練に備えて心を引き締めた。

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