67.固有名詞だけが思い出せない
『多年草に詳しいわけじゃないんだけど、たぶんお母さんが庭に植えてた花だと思う。こんな感じの……白っぽい葉っぱで』
ビオラの意外な才能だ。借りたペンでさらさらと絵を描いた。ひょろりとした茎を持ち、小さな葉と、やはり小さな花を器用に紙の上へ表現する。
『花は赤に近いピンクで、サクラソウじゃなくて……えっと』
『スイレンノウか?』
『そうそう、そんな名前だった』
絵に反応したのは、クレチマスだった。農家で植物には詳しいが、妻が庭に植えていたと話す。ビオラの前世の母も植えていたなら、かなりメジャーな植物らしい。
『白もあったぞ、妻が植えたのは白と薄いピンクだった』
クレチマスとビオラのお陰で、リクニス・コロナリアの姿は理解できた。おそらく花の名前も間違いないだろう。問題はここからだ。
『二つの国が一つになるってこと?』
カレンデュラは眉を寄せる。他の物語にそんな展開はなかったと思う。乙女ゲームは試していないので、ストーリーを知らない。ただビオラの話したあらすじからは、他国に吸収される結末はなかった。他の物語もすべて、めでたしめでたしで終わるのに?
『偶然かもしれませんし、決めつけるのは早いのではありませんか?』
ティアレラが慎重に言葉を選ぶ。ここにいる人間に理解できなければ、物語の特定は困難だ。もしコロナリア建国記の二部の帝国がセントーレアなら、嫁ぐカレンデュラにとっては滅亡の予告だった。周辺国にとっても同様だ。
『主人公の名前、せめてそのくらいは思い出したい』
唸りながら考え込むも、ティアレラは浮かんでこない固有名詞に溜め息を吐いた。国の名称も、登場人物の名前も、地名や場所すら思い出せない。綺麗に塗りつぶされたようで、不自然だった。
『強制力、かしら』
カレンデュラは不安要素を一つ、口にした。転生や転移の物語で、よく出てくる事象だ。物語を変えようとしても、本編終了まで勝手に動けない。動いたとしても、その効果が調整されて本筋に戻ってしまう。
『皇太子殿下は何も知らないんですよね?』
ビオラは、この場にいないコルジリネを口に出した。物語に心当たりはまったくないと言っていたが、流行に乗って読んだ可能性はある。彼は小説やアニメに興味がなかったと言ったが、コロナリア建国記は大人向けの新書として発行された。
『今日はいったん解散で、思い出せる限りを紙に書き出すわ。ティアレラもお願いね』
『はい、主人公の名前が、この辺まで出てる気がします。後少しなので』
喉のところに手を当てて、もう少しと強調する。ティアレラの仕草に、ふふっと笑みが漏れた。
クレチマスも花の名前から何か思い出せないか調べると言い出し、ビオラも絵なら協力できそうと拳を握る。ようやく手がかりを得たのだから、なんとしても手繰り寄せる!
部屋に戻ったらコルジリネに手紙を出そう。少しでも情報がほしい。カレンデュラは、室内に侍女を呼んで片付けを指示した。それぞれに部屋へ引き上げる中、リッピア嬢とすれ違った。
「お兄様」
「待たせてごめん。散歩なら付き合う」
リッピアと踵を返すクレチマスを見送り、ビオラがぼそっと呟いた。
「ルピナスに会いたいな」
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