78.皇太子殿下の脱走

 皇太子として必要な政務を片付け、一息ついたところに手紙が運ばれてきた。どうやら仕事が落ち着くまで、隠していたようだ。手紙が届いたからと、政務を疎かにするような男と思われているのか?


 むっとした顔で、コルジリネは手紙を受け取った。美しい文字で綴られた宛名、裏返して封蝋の紋章を確認する。途端に理性が飛んだ。ペーパーナイフを当てて、大急ぎで目を通す。


「他の……男?」


 街で拾った男を、屋敷に連れて帰った。その男は先日判明した『コロナリア建国記』の三部主人公かもしれない……? このセントーレア帝国を滅ぼす可能性がある危険人物が、あの美しい婚約者の屋敷に滞在?!


 青ざめていくコルジリネの様子に、側近達は目配せし合った。嫌な予感がする。そんな側近達の懸念は、すぐに現実となった。無言で立ち上がるコルジリネが、脱走を図ったのだ。


 囚われているわけではないので、脱走という表現は間違いだ。それでも、逃げ方と追いかける側の労力が、その単語を選ばせた。


 執務室の扉から廊下に出るなり、全力で走る皇太子。お待ちくださいと丁寧な口調を使いながら、捕獲用の二又を手に追いかける側近達。見慣れた光景に、周囲はさっと傍に避けた。うっかり前を遮れば皇太子に攻撃され、追いかける側近の邪魔をすれば、サスマタで薙ぎ払われる。


「皇太子殿下はまたなの?」


「さきほどお手紙が届いたんですって」


「デルフィニューム公爵令嬢様も罪な方よね」


「すごい美人だもの。殿下が惚れ込むのもわかる」


 侍女達は噂話をしながら、追いかけっこを見送った。槍に似た長い武具の先は、二又に割れており人を挟むよう設計されている。不審者対策として、皇太子コルジリネ自身が設計し、提案した武具だった。宮殿内に装備された二又の道具は、サスマタと名付けられている。


 日本人の知識を思わぬ場所で活用したコルジリネだが、整備させた不審者対策に追い詰められた。迷って、窓から飛び降りる。


「殿下っ!」


 心配というより、叱りつける響きで側近が叫ぶ。くるりと回って着地したコルジリネは、足が痺れる痛みに顔を顰めたものの、庭の迷路に潜り込んだ。


 イギリス式の庭園である迷路の茂みに転がり込まれ、見失った側近達が舌打ちした。回り込んで追いかける騎士を見ながら、大きく肩を落とす。


「また陛下に叱られるぞ」


「俺はもう側近を降りたい……」


「ご婚約者様が絡まなければ……いい主君なんだけどな」


 これ以上追い回すより、リクニス国のデルフィニューム公爵家で待ち伏せする方が早い。何より確実だった。皇太子として宮殿で育ったとは思えないほど、市井に慣れており行動力がある。


「ひとまず……陛下に報告だな」



「「「せーの! じゃんけんぽい!!」」」


 皇太子コルジリネが広めたじゃんけんで決着をつけ、負けた一人が渋々報告に向かった。その間に二人はリクニス国への入国手配を始め、送迎用の馬車を準備し、先触れの手紙を用意する。


「国境、どうやって越えてるのかな」


「森ルートじゃないか?」


 皇太子なのに……。ほぼ同時に呑み込んだ言葉は声に出されることはなく、二人は陛下に叱られた同僚を伴い、馬上の人となった。

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