71.名前も聞かなかったわ

 馬に声をかけた青年はビオラを押し上げ、自らも飛び乗った。ルシルとは愛馬の名前らしい。くるっと馬首を街の方角へ向け、全力で走る。腹で馬に跨った形のビオラは、込み上げる吐き気に逆らえなかった。


 派手に嘔吐し、馬が嫌そうに鼻を鳴らす。振り落とそうと首を振るも、ビオラはがっちりとしがみ付いて離れなかった。こんな状況で振り落とされたら、吐瀉物の上に落ちるじゃない! 必死に抵抗するビオラに呆れたのか、はたまた主人の命令に従ったのか。


 馬は再び走り出した。数回吐いたことで、ビオラも落ち着く。そのまま駆ける馬が街の入り口に到着する頃、背後の馬車は見えなくなっていた。


「まず隠れるとしよう」


 馬を専用の店舗に預け、青年は近くにある古着屋へビオラを誘導した。慣れた様子で一揃え注文し、出された服に着替えるようビオラに告げる。逃げる手伝いをしてもらっているため、彼女は素直に従った。


 ピンクの髪はさすがにこの世界でも珍しいため、帽子で隠すようだ。ここはビオラも協力し、髪をくるりと巻いて帽子の中に押し込んだ。


「なんだい、逃げてるのか?」


「ああ、ちょっとな」


 にやりと笑う青年とビオラを交互に見て、店主は勝手に勘違いした。駆け落ち途中の若いカップルだと思い込み、ビオラのドレスを受け取って裏口へ連れ出す。


「これはお釣りだ。幸せになれよ」


「え?」


「ありがとう、店主殿。いつかお礼に来れるよう頑張るよ」


 購入した衣装とドレスの差額を受け取り、ビオラは首を傾げた。そんな彼女に近づき、親しげに振る舞いながら青年は挨拶して裏口から出ていく。


「急いで走ると怪しまれるから、普通に歩いて。街を楽しんでる感じで」


 言われた通り、普段通りに振る舞うと……すぐ脇を馬に乗った御者が走って行った。さすがにドレスが違うので、気づかなかったようだ。


「ねえ、このお金なに?」


「ああ、さっきのドレスとこの服の差額だろう。かなり多いから、色をつけてくれたんだと思うぞ」


「どうしてよ」


「駆け落ちカップルと勘違いされたのさ」


 むっとした顔で、ビオラが足を止めた。


「そんなの困るわ。私、婚約者がいるもの」


「本気で口説いてないから、問題ないんじゃないか? 嘘も方便、勘違いしてる店主は君の行方に口を噤んでくれるさ」


 ドレスの入手先を問われても、絶対に答えない。積極的に利用すべきだと言い放つ青年に、ビオラは嫌そうに返した。


「そういうの、後で痛い目に遭うわよ」


「じゃ、ここで別れる?」


「ええ」


 ビオラはさっと踵を返した。ここからなら、知り合いの店がさほど遠くない。両親に連絡してもらえば、迎えも頼めるだろう。そう思った矢先、ずっしりと金の入った袋に気づいた。


「いけない、お礼を忘れたわ」


 このお金をそっくり渡そう。それで終わりにすればいい。振り返ったビオラだが、そこに青年の姿はなかった。馬を預けた店舗まで走るも、ルシルという栗毛の馬も消えている。


「……もう少し早く思いつけばよかった」


 借りっぱなしで後味が悪い。肩を落としたビオラは、とぼとぼと歩き出した。再び御者だった男とすれ違うが、まったく気づかれなかった。知り合いの経営する料理店に到着し、すぐにラックス男爵家へ迎えを頼んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る