84.ジキタリス子爵家の事情

 ジキタリス子爵家の女主人は、エキナセア神聖国出身だ。タンジー公爵家の寄子である子爵は、妻を呼び出してこう告げた。


「疑われている。申し開きを行った方がいいだろう」


「承知いたしました。私が単独で……」


「いや、それでは俺の面目が立たん」


「あなたの面目など知りません。私は公爵夫人にお会いして、長年の思いを伝えたいだけですわ」


 疑われていると伝えたのに、どこでそうなった? 子爵は首を傾げ、妻をじっと見つめた。惚れて娶った女だ。外見の美しさはもちろん、勇ましく強い内面も好ましく思った。その妻が、なぜ逆らおうとしているのか。


「明日の朝、出発しますわね」


 さっさと話を進める妻は、見事な赤毛をくるりと回して、手に絡めるような仕草で纏めた。後頭部へ髪飾りで固定する。器用さにいつもながら感心した。一般的な淑女は、着替えに侍女の手を借りる。だが、妻はいつも一人で身支度を整えた。


 ほぼ庶民に近い生活をしてきたらしく、神殿で暮らした彼女は質素倹約が身についている。贅沢を好まない性格は、とても助かっていた。ジキタリス子爵領の財政は悪くないが、王都の貴族に比べたら質素だ。


 毎日豪勢な料理を並べ、絢爛豪華な夜会に出かけることもなかった。ドレスだって数着仕立てたら、それ以上を望まない。宝飾品を強請られたのは一度だけ。結婚を決めた時の指輪だけだった。


「……俺も行くぞ」


「そこまで言うなら、仕方ないですね。同行する許可を差し上げます」


 なぜ妻の方が偉そうなんだ? そう思うが、母の教えを思い出して堪える。家の中では妻が最強、夫は大人しく従えば家は繁栄するらしい。実際、その方法で父母もうまくやってきた。外では夫を立ててくれるため、無理を言う必要もない。


「よろしく頼む、置いていくなよ」


 念を押すと、彼女はからから笑った。出会った頃より増えた皺は、目元や口元に集中している。笑い皺だと本人は誇らしげにしていた。


 エキナセア女神を信仰しているが、一神教の頑なさはない。多数の神々がいることを理解した上で、それでも祈る対象がエキナセア女神なだけ。他神を信仰する神官と変わらない立ち位置で、領民や神殿と騒動を起こしたこともない。


 話せば伝わるさ。ジキタリス子爵は軽く考えた。彼女は信仰対象を一柱の神に絞ったが、それは別の神官と同じだ。説明すれば伝わる。その夜はぐっすりと眠れた。


 ほぼ一日中馬車に揺られ、たどり着いた公爵領の砦は大騒ぎだった。エキナセア神聖国から流れ込んだ難民が、あちこちに天幕やテントを張っている。それを横目に、砦に案内された子爵は公爵夫人と対峙した。


 戦装束の公爵夫人に妻を紹介する。きりりと勇ましい公爵夫人へ、妻は思いの丈をぶつけた。勇猛な姿に憧れ、戦う術を身につけようとしたが追いつけない。その整った美しさも、強さも、夫を支える手腕も、すべてが愛おしい。


「お姉様と……呼ばせてください」


 最後に締め括った熱い想いに、公爵夫人は大声で笑った。膝をついて崇めるような子爵夫人を立たせ、その頬に口付けを送る。まるで騎士と姫君のように。


「好きに呼べ」


 なぜだろう、公爵家の誤解が解けたことは嬉しいのに……妻を取られたような気分になった。

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