雪の女王 Ⅴ

 ※作中で主人公が偏った思考・発言をしておりますが、あくまでもキャラクターとしての彼女の考え方なのでご了承下さい。






 そこから、彩美あやみの非日常は始まった。


 とは言っても白姫しろひめから与えられた『輪廻りんね』とやらの能力以外、彩美は至って普通の女子高生である。


 他の面子は先祖が陰陽師だったり、家が神社だったり、『寺生まれのTさん』ならぬAさんだったりと、生まれすらも矢鱈と濃かったが。

 まるで物語の登場人物のようだ。極々一般的な家庭に生まれた、平凡な彩美とは大違いである。


 一言で言ってしまえば、彩美は彼等の足を引っ張るだけの存在だった。


 歯痒かった。


 死ぬことでしか発動しない能力。

 くれない達が傷付くのをただ見ているだけの、何の役にも立たない自分。


 彩美にあるのは無駄に小賢しいこの頭と、ひねくれた面倒臭い性格だけだ。


 らしくない。他人のために『何かしてやりたい。自分にも何かできることがないか』等と模索するだなんて『門螺かどにし 彩美あやみ』らしくない。


 このもやもやとした気分を発散させるため、彩美は数学の授業を仮病で抜け出し、屋上に向かった。

 こんな時は風に当たるのが一番すっきりする。

 ……そう思っていたのだが。


 屋上にはいつかの時と同じく、先客がいた。



「……また寝てる」



 紅が以前同様猫のように丸まって、塔屋とうやの陰で眠っていた。

 彼はワイシャツ一枚で平場に転がっている訳なのだが、汚れないのだろうか。

 神経質そうに見えて、案外大雑把だ。


 彩美は溜め息を一つ溢すと、いつぞやの再現のように紅から少し離れた場所に腰を下ろした。

 画面越しに多くの人の気配を感じるスマートフォンを今だけは開く気持ちになれず、彩美はぼんやりと紅の寝顔を眺めた。

 観賞に堪える顔であるということについては、純粋に称賛する。



「……今日は泣いてないのね」



 眠りながら泣かれるのは、心臓に悪い。

 悲しみに満ちた、紅の声を聞きたくはない。


 ――彩美以外の誰かを呼ぶ声なんて。



「は……」



 ――今何を思った?


 胸を渦巻いた、執着とも呼ぶべきこの感情は何だ?

 紅の顔を呆然と見詰めていると、彩美の微かな声を拾ったか、彼がうっすらと目を開けた。



「……彩美か。またサボりか?」



「違うわ。体調が悪いのよ」



 白々しいそれに、紅が口の端で笑う。

 紅は片膝を立てて座り直すと、壁に背中を預ける。彩美はその動作を横目で眺めていた。


 学年では不良として恐れられているが、当の本人は制服を着崩すでもなく、ピアスを開けたり煙草や酒をやる訳でもない。

 そのアンバランスさに、ずっと違和感を抱いていた。



「……アンタって、どうしてそんな不良みたいなことをしてる訳? キャラじゃなくない?」



「実験だ」



「実験?」



 紅の思考回路が理解できず、彩美は鸚鵡返しする。



「……今までやらなかったことを試せば、何かが変わるかと思ったんだが」



「それで『不良もどき』? 極端過ぎない?」



 呆れ果てた彩美が肩を竦めると、紅は同意するように苦笑した。



「お前と関わりを持たないようにしたのも、その一環だ。でも何も変わらなかった。……だから、青は現状を変えようとした。アイツが何を思い、何を抱えていようとも、それは事実だ」



「青が……?」



「――お前を引き入れるよう進言してきたのは、青だ。俺はそれを認めただけ。青は、お前と黒姫くろひめが接触するかもしれない可能性を恐れている。大切なんだろう、お前のことが。俺はアイツの気持ちを尊重してやりたかった、それだけだ」



 遠くに視線を投げた紅は、彩美の方を一切見ることなく淡々と告げる。

 その澄ました横顔を何としてでも歪ませてやりたくて、彩美は冗談めかした口調で――しかし紛れもない本心を――口にした。




「――あら、アンタはアタシを大切に思ってくれないの?」




 十五、六の少女が口にするには少々なまめかしさのある、商売女染みた挑発的な文句。

 それに対し紅の顔色が変わることはなかったが、彼の気を引くことには成功した。



「『大切』か……そう純粋に言葉にするには、この感情は歪み過ぎてしまったな」



 紅は困ったように眉を下げ、ワイシャツの胸元を掻き乱した。

 しかし薄い唇は相反して、頼りなげな笑みを浮かべている。


 不可思議な、形容し難い表情。

 ――それに、彩美は魅入られた。


 次いで「欲しい」と、強く思った。

 まるで横面を殴られたような、ガツンとした激しい情動。

 本能を剥き出しにした獣のようだ。彩美が獣であったなら、欲求のままに紅の喉笛に噛み付いて、彼の肉を喰らっていただろう。


 それ程までに、荒々しい衝動だった。


 そして、何よりも驚いた。

 怒りでも、ましてや憎しみでもない。人はここまで激しい感情を、他人に対して抱けるのだということに。


 しかし彩美は嵐にも似たこの煩くざわめく心情を、おくびにも出さなかった。

 紅に悟られないよう慎重に、厳重に心の奥底に仕舞い込み、固く封をした。


 ――まだ、その時ではない。



「……ねえ、アンタは他の世界の『門螺 彩美』を知っているんでしょ?」



「ああ」



 さすがに本人を目の前にして別世界の『門螺 彩美』の話題は気不味いのか、紅が口を濁す。



「アンタがここまでするのは『門螺 彩美』を、この繰り返しから救いたいから?」



「……」



「そうやって、ばつが悪くなると直ぐ黙る」



「……うるさい」



 渋々といったそれに、彩美は気分良く目を細めると、己の右目下をトントンと叩いた。

 ――紅ならば眼帯で覆われている、そこ。



「これは『門螺彩美今の私』を救うために、必要だったの?」



「思い上がるなよ」



 吐き捨てるように言った紅だが、彼の煮え切らない態度こそが彩美の問いへの、その答えだった。

 暴力的なまでの感情が、胸に沸き上がる。

 処女雪を踏みにじるかのような征服感、そしてそれによって生じる充足感。



「ねぇ、眼帯を外してくれる?」



「……見て気分の良いものではない」



「アタシには、見る義務があると思うのだけど?」



『門螺 彩美』が言い出したら聞かないのは、今までの経験上解っているのだろう。

 紅は深々とした溜め息を落とすと、眼帯の結び目をほどいた。ただそれだけの動作がやけに色香に溢れ、ねやでの睦事むつみごとを思い起こさせた。


 ――音もなく落ちた白は、紅の膝に静かに身体を横たえる。


 現れた右目は濁り、光を失っていた。

 目蓋から右目の下にかけて、裂傷が走っている。

 治癒してから時が経っているのか皮膚は乾き、引き吊っていた。



「……痛かった?」



 ――当然だ。

 だが彩美は紅の感じた痛みすらも共有したいがために、そう問い掛けた。



「……ああ」



 当時のことを思い出しているのか、紅が痛みを耐えるように眉を寄せる。


 ――それすらも愛おしい。


 彩美にとって、紅の存在はまるで麻薬のようだ。


 彩美は恋といった不確かなものにうつつを抜かす、同級生の少女達をはっきり言って馬鹿にしていた。

 そんなものに心奪われ道を誤る者、道を踏み外す者を、頭のおかしい異常者だとも思っていた。


 だがこうして、彼女達が感じていたであろう麻薬中毒にも似た感情の片鱗を、彩美も今ようやく理解した。

 夢中になる気持ちも解る。この酩酊感は、おおよそ毒だ。それも依存性が高い割に、ほんの少しで致死量に至る。


 ああ――くらくらする。


 恋愛小説でもよくある「あの人に出会って世界が変わった」というフレーズ、あれはあながち間違いではないのだろう。人によっては「雷に打たれたような」とでも表現するのだろうか。

 彩美風に表現するならば――侵食されて行く、だろうか。『塗り替えられている』まさにその通りであった。


 夏服に切り替わり、半袖の黒のセーラーから伸びる腕が、紅の生白い頬に触れる。

 左手の親指で右目下を優しくさすってやると、こそばゆいのかひくりと眉が動くのが面白い。



「終わらせてやりましょう。この繰り返しを。アタシ達なら出来るわ。だって学年一位様と二位様よ? なら、できないことなんて皆無でしょう?――ねぇ、私の『カイ』」



 彩美は大胆に、その薄っぺらい身体に抱き付いてやった。体温の低い、冷えた身体だった。

 紅は彩美を振り払うことはなかったが、彼女を抱き締めることもなかった。

 どこまでも高潔な男だ――反吐が出る程に。



「……何だ。『雪の女王』では飽き足らず、ゲルダにでもなったつもりか?」



「良いでしょ。アタシはどちらかと言うと、健気な女が好きなのよ」



「はは、お前とは正反対だろうに」



 彩美は珍しく無邪気に笑う紅を見て、ようやく気付いた。


 紅にとっての『門螺 彩美』は、今の『門螺 彩美』だけではないのだ。


 彼は今まで過ごして来た三万以上もの全ての世界の『門螺 彩美』を、それぞれ『門螺 彩美』という人間の一面として慈しんでいる。

 


 ――それは、『今の彩美』を見ている訳ではない。



 彩美にとっての『喜多見城きたみしろ くれない』は、目の前の彼しかいないのに。

 そう考えたら許せなかった。『今の紅』にとっての『門螺 彩美』は、この彩美アタシだけだ。



 ――こっちを見ろ、今のアタシを見ろ。


 ――今までの『門螺 彩美』と、アタシを比べるな。



 その思いは深く深く、彩美の胸に刻まれた。


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