第2話 哀は青より出でて④

 彩美あやみくれないは無言で廊下を進み、昨日と同じく姿見の前に立つ。

 以前は黒姫くろひめに無理矢理引き摺られた形だったため、自分から鏡に向かって行くのは勇気がいった。

 普通ならば、鏡を通り抜けられるなど思いもしない。


 尻込みする彩美の目の前に、紅の右手が差し出される。



「――行くぞ」



 悩んだ末に、彩美はその手を取った。

 紅の手を覆っている包帯越しに、彼の低い体温を感じる。


 紅は微かに口の端を綻ばせると、姿見へ一歩、また一歩と進んで行く。

 それは彼と手を繋いでいる彩美も、姿見に近付いているということと同義だ。


 とぷんと水に沈むような音と共に、紅の身体が鏡の中へと入って行く。まるで騙し絵でも見ているようだ。

 紅に導かれる形で、彩美も鏡の中へと沈んで行く。

 彩美の腕が、右肩が鏡に吸い込まれ、最後は全身が呑み込まれた。


 それは水のように纏わり付くでもなく、はたまた泥濘ぬかるみに沈むような感覚でもない。

 降り立った先で水面にも似た床に足先を付けると、静謐なそこに乱れが生じる。

 何度見ても不可思議な光景だ。

 


「……昨日も思ったけど息もできるし、床は水じゃないのよね」



「ここはそういう場所だ。直ぐ慣れる」



 紅は、するりと彩美の手を離した。

 失われた体温を求め無意識に手を伸ばしそうになり、慌てて指先を引っ込める。調子を狂わされてばかりだ。

 彩美は舌打ちを一つ溢すと、彼女を顧みるでもない紅の背を駆け足で追った。






 しばし進むと、一等明るい場所に出た。

 そこでは山吹やまぶき難原なんばら姉弟が、白姫しろひめを囲んで和やかに話している。

 山吹の不良染みた見た目のせいか、気弱そうな白姫の見た目のせいか、カツアゲのワンシーンにしか見えない。



「あ、遅かったなぁ」



 紅と彩美に気付き、似非関西弁の独特なイントネーションでむらさきが言った。



「遅くなってすみません、白姫」



「いいえ。私には永久にも似た時間がありますから……」



 白姫の声を初めて聞いた。

 昨日難原姉弟に守られていた彼女は、彩美の前で一言も口を利いていないのだ。

 矢張見た目通りの弱々しい、鈴のような声だ。

 そんな少女であるのに、彼女に対する紅の態度は恭しい。

 それだけで白姫が何か特殊なものを持っているというのは、十分過ぎる程に伝わった。



「もしかして、並行世界の奴等と一戦交えて来たんとちゃう?」



 あおが鋭い推理力で言い当てるのに、紅はばつが悪そうに顔を背けた。



「……俺のことは良いだろう。それでは白姫、並行世界について説明をお願いできますか? 門螺かどにしにとっては俺よりも、貴女の口から詳細を聞く方が信憑性があると思いますので」



「……解りました」



 伏し目がちの赤い瞳が、おずおずと彩美を映す。

 その自信なげな様子と白髪に赤い瞳という容姿から、彩美は白兎を連想した。

 どことなく白姫自身も小動物らしい。



「彩美さんがいらっしゃるこの世界――私達は『第34756世界』と呼んでいますが……私はそこを統治する者です。私の力は、この深冬黎明みふゆれいめい高校にのみ作用しています。それは黒姫も同様です」



「何で、この高校限定なの?」



「……申し訳ありません。それはお答えできません。ただ唯一言えるのは、『私と黒姫の管理している世界』の全てが、この学校を中心としていることです。よって黒姫から差し向けられる並行世界の彼等もまた、この学校の関係者ということになります」



「顔見知りが、敵として現れる可能性もあるってことよね。それはそいつ等喜多見城達から聞いたわ」



 白姫が小さく首肯した。

 更に白姫の言葉に、紅が付け加える。



「……言うなれば並行世界の『柳田やなぎだ 悠陽ゆうひ』が、お前の敵として現れる可能性もあるということだ」



「……」



 ――考えなかった訳ではない。

 先程紅と共に邂逅したあの少女とて、この学校の生徒なのだろう。彩美が彼女を知らなかっただけで。



「もしもそうなったら、お前はどうする? この世界で友人だからと言って、あちらの世界の『柳田 悠陽』が手心を加えてくれる訳ではない。黒姫から力を授かり『第34756世界こちら』に来ている時点で――あの女子生徒の言葉を借りるのならば『白姫のことわりを破壊し、無に返す』ために、この世界のお前や俺達を殺すことも厭わないだろう」



「……白姫、と呼ばせてもらうわよ。『アンタの理を壊す」というのは、『アンタを殺す』ことと同義と考えても良い訳?」



 話の矛先を再度白姫に向けると、彼女はこっくりと頷いた。

 何の感慨も浮かばないそれに、先の紅の姿が重なる。


 ――こいつもだ。


 こいつも『死』というものに、明らかに慣れている。


 紅や白姫だけではない。

 山吹や難原姉弟とて、恐らくは同種の人間なのだろう。



「黒姫がアンタを狙うのは何故?」



「繰り返しになりますが、私はこの世界を管理する者。その私を殺すということは、今ここにある世界も、黒姫の管理下となるということです。……それは、停滞する時の中。終わりなき永遠の始まり」



「……どういう意味?」



「――申し訳ありません、彩美さん。に、これ以上お教えすることは出来ません。いずれ解ることです。……そう、嫌でも」



 白姫の赤い瞳が、彩美を見据える。

 予言のような響きのそれは、弱々しいながらもしっかりとした口調だった。


 何もかもが気に入らない。


 紅から聞いた以上の情報を得られたようには思えない。とんだ無駄足だ。



「……もう良い、分かったわ。――喜多見城きたみしろ。アンタ、何時まで私を監視するつもり?」



「再度、黒姫からの接触がないか確認するまでだ」



「あっそう。……それじゃあ、もう私は帰って良いかしら? そんなに暇じゃないの」



 内心で「帰宅部だけど」と呟きつつ、そう毒吐いた。

 紅が何か言おうと口を開きかけたのを、青が制する。



「一人は危ないから、私が玄関まで送るわ。ええよな、紅?」



「……好きにしろ」



「おおきに。ほな、行こか。門螺かどにしはん」



 何故ほぼほぼ初対面の青が彩美の見送りを買って出たのかは分からなかったが、これ幸いと彼女の提案に乗った。

 歩き出した青を追う彩美の背に、白姫が控え目な声を掛けた。



「またいらしてください、彩美さん。私はいつでも、ここにいますから……」



「じゃあな、み~ちゃん。また明日」



「じゃあな、彩美!」



 次いで山吹とむらさきが別れの言葉を告げたが、彩美は一瞥をくれただけで、無言でその場を立ち去った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る