雪の女王 Ⅸ
「――好きです」
放課後。
このご時世に下駄箱に手紙という古典的な方法で呼び出された彩美は、人気のない理科室にいた。
その手紙の差出人たる彼が口にした言葉もまた、彩美の想像を絶していた。
「えっ、と……
「『好きです』と言いました」
「へぇ……」
矢張彩美の聞き間違いではなかったらしい。
月夜がどこをどう罷り間違って、彩美に好意を抱いたのかは彼女の知ったことではないが……彼の存在は使える。
ならば彩美がすることは一つだ。
彩美は九割方の人間には好意的に受け止められるだろう、柔らかい笑みをその顔に貼り付ける。
「ごめんなさい、藤垣君の気持ちは嬉しいんだけど……」
「いえ。僕もただ、この気持ちを
殊勝な言葉とは裏腹に肩を落とす
「アタシは藤垣君をよく知らないから……良かったらアタシ達、友達にならない? それなら、アタシも藤垣君の良い所を沢山知ることができるわ」
「……
怪我の療養を終えた紅は、学校に復帰して早々
いつものように屋上に顔を出すと、深刻な顔をした紫に出迎えられる。
その傍らに
「珍しいな、紫。お前一人か?」
「……この話をするのに、青がいると都合が悪かったんや」
重々しい紫の口振りから長丁場になりそうだと踏んだ紅は、
紫は屋上に自分達以外の姿がないことを用心深く確認すると、紅同様腰を下ろす。
そうして紫は、何やら落ち着かない様子で指を組んだ。悩んでいる時の彼女の癖だ。
これが始まると長いので、紅は自分から話題を投げ掛けた。
「……
紫が一番信頼を置いているだろう、兄である
紅に会話の糸口を提示され、紫は意思を固めたのかこっくりと頷く。
「……お前が休んでる間に白姫がな、言っとったん。『
「それは――俺達の中に裏切り者がいる、と?」
紫が敢えて避けただろう決定的な言葉を口にすると、彼女は逡巡の後に肯定した。
「考えたくはないんやけど、そうとしか思えんことが何度かあった。他の奴等が気付いとるかどうかは、解らんけど……」
「それを誰かに話したか?」
今度は首を横に振った紫に、紅は内心安堵する。
賢明な判断だ。疑っていることが内通者に悟られてしまえば、元も子もない。
「……紫、今の話は内密に。他の誰にも言うなよ。青にもだ」
「――それは、青を疑ってるん?」
可哀想な程に顔を青褪めさせて唇を震わせる紫に、紅は「そういう訳ではない」と言葉を濁した。
「俺達が内通者の存在に気付いていないと思わせた方が、あちらは油断するだろう。お前は態度に出やすいからな、注意しろ」
「……解った」
「何かあったら、また俺に言え」
紫は頼りなげに頷き、踵を返した。
立ち去る彼女の背中を見送ると、紅は茜色に紫黒が混じる空を仰ぐ。
陽が沈むのも、どんどん早くなっている。
まだ十六時を少し過ぎたばかりだが、既に辺りは薄暗く、日中に比べて大分肌寒い。
「……アンタ、まだ帰ってなかったの?」
――思考の海に深く沈み過ぎていたようだ。
屋上に誰かがやって来たことにすら気付かなかった。
しかしその声は馴染みのあるもので、紅は強張った身体からゆっくりと力を抜いた。
「
「何よ、その顔。人をまるで幽霊みたいに。失礼しちゃうわ」
彩美は不機嫌そうに鼻を一つ鳴らすと、当たり前のように紅の直ぐ側に腰かけた。
「そう言えば、見舞いに来てくれたそうだな。
「大したことじゃないわ。手土産は紫や
「ああ……で、何の用だ?」
「別に。……ここは景色が良いから、ちょっと休憩に来ただけ」
――嘘だ。
彩美の仕草――左耳に髪を掛ける――が証明していた。
それは、彩美が嘘を吐く時に無意識に行う癖だ。
そして『
「そんな時間があるのなら、とっとと帰宅して家で課題を
そもそも帰宅部である彼女が、何故この時間まで校舎に残っているのか。
委員会の仕事でもあったのか、あるいは個人的な用事があったのか。
――いや。先の紫の話があったために、疑心暗鬼になっているだけだ。
降って湧いた嫌な考えを心の内で否定し、紅は世間話の延長線として、自身が療養で不在にしていた間のことについて尋ねた。
先程は紫だけの視点だったが、彩美からの話も併せて聞いた方が、より正確なものとなるはずだ。
「……俺がいない間、変わったことはなかったか?」
鎌をかけたつもりなど毛頭なかった。
本当に、ただ仔細を把握したいがために尋ねただけだった。――だが。
「――そうね。
彩美の返答がやけに空虚に響いた。
紫ですら、否 。案外周りを見ている彼女だからこそ、気付いた訳ではあるが――その紫が気付けたものを、頭も良く勘も鋭い彩美が察せられぬはずもない。
彩美のことだ。異常性がないと判じ、話題に上げなかった可能性は無きにしも非ずだが……それにしてはいやに断定的だった。
違う。紫の話が尾を引いているから、そう感じてしまうだけだ。――思考が堂々巡りしている。
紅は心中のさざめきなど一切感じさせない冷静さで以て、「そうか、なら良い」と短く返した。
三万回も繰り返せば、取り繕うのだけは必要以上に上手くなってしまう。
それは役に立つ反面、少しだけ憎らしくもあった。
「……彩美。俺はお前達が、お前が大切だ」
「何、急に……」
彩美がらしくない動揺した様子で、上擦った声を発した。彼女は落ち着きなく、目線をうろうろとさ迷わせる。
「だからこそ黒姫を退けた先の未来が、俺は欲しい。お前が生きて、笑っている世界が」
彩美が目を丸くし――表情をすとんと失った。
その劇的なまでの変化を、どう言い表せば良いのか。自他の感情の機微に疎い紅には、解らなかった。
今口にしたのは紅の本心、その全てだった。
だが、彩美にとっては受け入れ難いものだったのだろう。
彼女の能面のような顔が、それを物語っていた。
「……その時アタシの隣に、アンタはいる?」
彩美が紅に向けている感情は、限定的なものかもしれない。
特殊な環境に於ける距離……秘密を共有する仲だからこそ、半ば必然的に芽生えたものでもある。
黒姫、並びに並行世界のことが全て丸く収まれば、彩美はいずれ紅ではない、他の誰かに惹かれるのかもしれない。
紅がどれ程彩美のことを想っていようとも、人の感情だけは如何ともし難い。
それこそ秋空を、女心に喩えるように。
「それは……お前が決めることだ」
自信のなさを気取られぬよう、彩美に選択を委ねた。
情けないことだ。顔には出さず、紅は自嘲した。
「アンタは……」
彩美が俯いて何事かを呟いたが、余りに小さいそれを拾うことはできなかった。
時間にしてほんの数秒の沈黙の後に、彩美は顔を上げ、どこか振り切れたような笑みを浮かべた。
「……風が冷たいわね。もう帰るわ。アンタも病み上がりなんだから、とっとと帰りなさいよ」
複雑な色を湛えた瞳を無理矢理弓なりに歪めると、彩美は足早に屋上から立ち去った。
使い古された言い回しだが『ボタンを掛け違えた』、そう思った。
寂寥感さえ覚える秋の風が、紅の頬を冷たく撫でる。
いつぞやに、
「――秋も終わりだな」
その体温に回顧の念を抱きつつ、紅はそっと目を伏せた。
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