雪の女王 Ⅷ

 そろそろ冬の訪れを感じ始めた十一月下旬。


 くれないは、療養のために学校を休んでいた。


 彼は白姫しろひめから与えられた能力『因廻いんね』で、彩美が負った怪我を肩代わりしたのである。


 黒姫くろひめ並びに並行世界との戦いは、日々激しさを増していた。


 落ち込む彩美を見兼ねて、山吹やまぶきが冗談交じりに「これが紅の『停学』の正体だよ」と苦笑した。

 彼が言うには、紅は確かに素行不良ではあるものの、停学になるようなことは一切していなかったらしい。

 度々流れていた『紅が停学を食らった』という噂の真実を、彩美は図らずも知ることとなった。






「ここが紅の家や。赤音あかねちゃんには連絡してあるから、大丈夫やと思うんやけど」



「……」



 彩美は案内役のあおと共に、紅の家の前に立っていた。

 物々しい雰囲気の門扉は、立ち入るのを躊躇させる。


「赤音ちゃん」とは、紅の親戚の少女だそうだ。

 彼女は母親を早くに亡くした紅を心配し、家事の手伝いをしているらしい。

 初めてそれを耳にした時は怒りでどうにかなりそうだったが、こうして赤音と顔を合わせる機会を得られたことは、ある意味で僥倖だったなという考えが頭を過る。


 大人数で人様の家、それも怪我人の家に押し掛けるのはどうかという至って常識的な観点から、山吹とむらさきは見舞いを辞退している。

 その分彼等二人から喜多見城きたみしろ家に持って行く手土産の代金を預かっていたので、青と彩美もそれぞれ出し合い、関本せきもと和菓子店の大福を幾つか購入した。


 ちなみに関本和菓子店というのは、彩美達の通う深冬黎明みふゆれいめい高校近くにある和菓子屋だ。店の一番人気は豆大福である。

 皮が軟らかくもちもちしており、外側の豆のしっとりとした食感に、中の小豆餡が合わさって更に美味しさが増す。


 そんな至高の大福は、店名が書かれた空色の包装紙に包まれ、彩美の手にしっかりと抱えられていた。



 青が勝手知ったるといった様子で潜り戸を開けて中に入って行くのに、彩美は大人しく続いた。

 青はこれまた慣れたように庭を突き進むと、如何にも和風な引き戸の前に立ち、インターホンを鳴らす。

 一昔前のブザーのような、懐かしさを感じる音が響いた。


 硝子越しに微かな足音が近付いて来るのが聞こえ、次いで輪郭の歪んだ人の姿が映る。

 ガシャンと鍵の開く音と共に、紅と良く似た面差しの少女が顔を出した。

 恐らく彼女が件の「赤音ちゃん」なのだろう。



「こんにちは、青さん――そして、初めまして門螺かどにし 彩美あやみさん。北澤きたざわ 赤音あかねと申します」



 青とむらさきが持つ能力『廻絆ねはん』により、赤音には並行世界に関する記憶があるという話を事前に聞いていたので、特別驚きはしなかった。

 彩美も挨拶を返すと、そのまま紅の部屋へと案内される。


 そこそこ広い部屋だ。

 だが部屋の壁という壁を埋め尽くす本棚に、かなり圧迫感を覚えた。

 それ以外は最低限の物しかなく、こざっぱりというよりかは、どこか寂しげな印象を受ける。


 するとお茶の準備をするという赤音を手伝うために、青が手土産を持って席を外した。

 手持ち無沙汰になった彩美は一先ずスクールバッグを床に置き、ベッドで静かに眠る紅の寝顔をぼうっと眺める。

 怪我による出血が多かったためか血の気が戻っておらず、青白いかんばせは死人を連想させた。

 しかし微かに聞こえる寝息が、彼が確かに生者であることを証明していた。


 静謐な空間は、まるで現実ではないかのようだ。


 彩美は何かに操られるように紅の頬に手を伸ばし、形の良い輪郭に添わせた。

 ひんやりとした頬の冷たさが、彩美の生温なまぬるい体温と混ざる。

 何かしらの引力によって引き寄せられるかの如く、彩美は紅に顔を近付けた。

 

 その薄い唇はどれ程甘美なのだろう。

 どんなに、柔らかいのだろう。

 紅の吐息が、彩美の口唇を湿らせる。

 その距離は徐々に近付き――。


 軽快なノック音に、彩美は我に返った。

 慌てて立ち上がり居住まいを正すと、それを見計らったかのように部屋の扉が開いた。



「彩美さん。紅茶とコーヒー、どちらがお好きですか?」



「……紅茶」



 バクバクと煩い心臓の鼓動を感じながら、彩美は普段通りを装う。

 彼女の動揺には気付いていないのか「ミルクと砂糖はどうします?」と、赤音が重ねて尋ねた。



「砂糖だけで良いわ。ありがとう」



 赤音は頷くと彩美から視軸をずらし、紅を見やる。



「貧血の症状が酷くて起き上がれないんです。今はまだ眠っておられる時間の方が長くて……」



「碌にご飯も食べないからよ」



「頑張ってはいるんですが中々……」



「――もしかして、コイツの弁当もアンタが?」



「はい。以前アドバイスを頂きまして……その、『貴女』に」



「……そう。アタシもやるわね」



 どこかの世界線の己に感心する彩美に、赤音はほうと息を吐くと「……何だか、いつもの『門螺 彩美』さんと貴女は違いますね」と、独り言のような呟きを洩らした。

 しばし目を伏せた赤音は、きっぱりと、しかしどこか諦めを含んだ口調で告げる。



「私、紅お兄様が好きです。大好きなんです。紅お兄様は、私のことなんて妹分位にしか思ってないでしょうけど……」


「紅お兄様から『この世界では門螺 彩美貴女と一切関わらない』と、そう聞いていました。……なのに、それを翻して貴女と交友を持った。言ったことは曲げない、この方がです。貴女にはそうするだけの価値があるのだと、私はそう思います」



 赤音はようやく紅から目を離し、彩美を正面に捉えた。

 彼女は目を逸らさずに、真っ直ぐに彩美を見詰める。その眼差しは曇り一つなく、澄み渡っていた。

 心に疚しさを持つ者ならば居心地の悪さと罪悪感を覚えるだろう、清廉潔白な瞳。



「紅お兄様をどうか、よろしくお願い致します。そして終わらせて下さい。この――繰り返す世界を」



 託されたのだ。赤音が大切にしているものを。

 紅だけではなく、彼女が殊更大事にしているだろう感情までも。

 数多の『門螺 彩美』を見て来た、目の前の少女から。


 彩美は垂れた横髪を左耳にかけると、赤音を安心させる類いの、優しい笑みをその顔に貼り付ける。

 様々な感情を胸の内に秘めて。



「――ええ、必ず」



『――魔女め』



 聞こえるはずのない黒姫の嗤い声が、耳の奥で木霊した。






 喜多見城家からお暇し、青と共にバスに揺られる。

 外は既に暗く、対向車も全くない。

 狭い道幅であることを考慮すると、運転手としてはありがたいだろう。

 車内の電光が反射して、バスの窓硝子に己の顔が映り込む。

 その拍子に、青と硝子越しに目が合った。



「……紅、起きんかったな」



「そうね。あの親戚の子が、まだ眠っている時間の方が長いって言っていたわ。貧血の症状が酷いんですって」



「それはそうやろ。飯も碌に食べとらんのやから」



 車内には彩美達二人と、壮年の運転手しかいない。そのため、青の呆れ声が矢鱈と大きく響いた。



「……でも、顔を見れて安心したわ」



「そうね」



 安堵を滲ませる青に、彩美も同意する。

 すると知らず知らずの内に口元を綻ばせていたらしく、青が目を見張った。



「彩美はほんまに……」



「何よ?」



 愕然とした表情で呆ける青に、彩美は眉を釣り上げる

 青は「何もあらへんよ」と首を振ると、小さく俯いた。




「結局、どの世界の『門螺 彩美』も『喜多見城 紅』に惹かれるんやな……はは。最初からに勝ち目も、付け入る隙も、なかったんやね……」




 青の囁きはガタガタと揺れるバスの音に掻き消され、彩美の耳には届かなかった。

 以降二人は何を話す訳でもなく、深冬みふゆ町に戻る道のりを車窓から眺めていた。

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