雪の女王 Ⅶ

 彩美あやみは自室で一人、数学の課題を片付けていた。

 いつもよりかなり進みが悪い。雑念が多いのだ。


 気を抜くと、くれないや並行世界についてばかり考えてしまう。

 恋だとか愛だとかは、こんなにも人をおかしくさせるのか。年相応に浮かれきった、小娘のような自分が信じられない。まるで自分が自分ではないみたいだ。


 だが、この気分すら心地良く思える己がいる。


 軽い音を立てて、シャープペンの芯が折れた。

 これで五度目だ。芯が勿体ない。


 (……一息入れるか)


 深々と溜め息を吐き、彩美は上体を伸ばした。

 丸まっていた背中が真っ直ぐに正され、清々する。

 ついでに凝った肩と首も動かしてやると、随分と身体が軽くなった。


 彩美は、母が差し入れてくれたアイスティーを口に含んだ。

 汗をかいたグラスが、机の上に円状の跡を残していた。それを目にして、彩美の思考は再び並行世界に移る。



 並行世界との関係に何か決定的な終止符が打たれない限り、この終わりなき戦いは続くのだろう。

 繰り返してしまっては意味がないのだ。

 彩美にとっては第34755世界ここで、紅と共に過ごすことに価値がある。


 そう。ここでなければ、意味がない。


 ならばどうすれば良いのか。

 彩美の頭脳を以てして、弾き出された結論は二つ。


 ――白姫しろひめを殺すか、黒姫くろひめを殺すか。


 片や未来ある世界、片や停滞する世界。

 紅達が選び取ろうとしているのは当然、黒姫を倒し、未来ある世界を生きることだ。


 だがそれは同時に、こうして紅と共にある理由が失われることでもある。

 そうしてどんどん縁も薄くなり、過ごしてきた時間も過去のものとなるのだろう。そしていつか彼の隣に、彩美ではない別の女が寄り添うのかもしれない。


 想像しただけで、許せなかった。


 ならばまだ――。




「『停滞している世界の方が、マシ』だろう?」




 彩美の内心を読んだかのようなそれは、彼女の背後から聞こえた。

 可愛らしい鈴の音のようでありながらも、隠し切れない悪意が滲む声音。


 彩美の後ろにあるのは――姿見だ。


 それだけでその声が誰のものなのか、瞬時に理解した。

 無様なまでの焦燥を悟られないよう、彩美はそっと息を吐く。

 冷静になれ。冷静に。選択を間違えるな。学校ではないのだ。ここでの彩美の死が、繰り返しにどう作用するのか解らない。



「安心すると良い。貴様等が白姫に与えられている能力は、学外でも有効だ」



 これまた、彩美の心の内を読んだかのようなタイミングだった。

 彩美は諦めて、侵入者と向き直る。



「アタシに何の用――黒姫」



 冬に映える美しき牡丹にも似た冷たい顏が、ニヤリと老獪な笑みを浮かべる。

 遣手婆のようなそれは、彼女が見た目通りの少女ではないことを物語っていた。



「交渉……というより、提案か」



「提案?」



 訝しげに眉を寄せる彩美を他所に、黒姫ははっきりとただ一言口にした。



「――私と手を組まないか?『門螺かどにし 彩美あやみ』」



 彩美にとってそれは青天の霹靂とも言うべき展開で――願ってもいない、申し出だった。

 棚から牡丹餅……彩美の心情としては『飛んで火に入る夏の虫』だろうか。



「何故アタシと? アンタがアタシと組むことで生じる、メリットは?」



「まず一つ目の答え、単純に利害が一致しているからだ。白姫に疑念や反逆心を持っている者の方が、私としても裏切られる心配がなくて有り難い」


「二つ目の答え――私が欲するのは白姫の『死』。そして歓迎すべき、停滞した世界。それが私の世界。貴様のメリットは……ここまで言えば貴様の頭なら、十分に理解できるはずだろう?」



 ――それはもう、十二分に承知している。そのデメリットも。



 事が上手くいかず彩美と黒姫の繋がりが露見した場合、彩美はあおむらさき山吹やまぶき ――そして紅からの信頼を、全て失うことになる。

 それらを天秤に掛けてまで、黒姫の話に乗る価値はあるのか。



「この繰り返しの世界が続いている限り、貴様等の運命は共にあるだろう。だが、私を消した後はどうだろうな。以降は全て、貴様等の選択次第だ」



 痛い所を突く。その見目に反して厭らしい手練手管はまるで――。



「……魔女ね」



「光栄だ。――だが『雪の女王』も、魔女のようなものだろう?」



 黒姫が、白く小さな手を差し出した。

 上衣の黒とのコントラストが、目に焼き付く。


 ――違いない。


 彩美は黒姫の言葉を鼻で笑い飛ばし、その手を――。

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