雪の女王 Ⅵ
さすがに二時間連続で休むことを良しとしなかった
戻って来た静寂に、
しかしそこにバタバタと
「彩美、ここに彩美はいるかー?」
聞き覚えがあり過ぎるその賑やかな声に、紅はついつい応えてしまった。
「……ついさっき教室に戻って行ったぞ。入れ違いだな」
「うぉっ、
「何故フルネーム……?」
彩美と同じクラスに在籍している、
どの世界線でも、彼女は『
だが今回は――。
「先生が呼んでたんだけど……まあ、戻ったんなら大丈夫か」
悠陽は一人納得して頷くと、紅から少し離れた場所にそのまま腰を下ろす。
「……そして何故座る。授業があるだろう」
「間に合うように戻るよ」
悠陽は必ずとも言って良い程『門螺 彩美』の友人だが、紅とはどの並行世界でも大した接点がない。
悠陽とこれ程近い距離でやり取りをするのは、もしかするとこれが初めてのことかもしれない。
「喜多見城、最近彩美と仲良いじゃん? どう、彩美元気にしてる?」
質問の意味が解らず、紅は困惑した。
紅ではなく、本人に尋ねた方が早いだろう。何せ同じクラスなのだから。
悠陽にそれをそっくりそのまま伝えてやると、彼女はどこか勝ち誇ったような顔でやれやれと首を振った。
「喜多見城は女心が解らない奴だな。素行は兎も角顔は良いんだから、もう少し周りを見た方が良いぞ」
「余計なお世話だ――で?」
悠陽は意外にも、その短い問いから紅の意図をする所を読み取ったらしい。
「……アタシ、彩美を怒らせちゃってさ。それ以降ずっと話せてないんだ」
「喧嘩をした、ということか?」
随分とまあ、幼い言い方になってしまった。
口に出してから気付き、紅は決まりが悪くなり顔を歪めた。
しかし悠陽は特に気にする訳でもなく「喧嘩って言えるような、可愛いもんじゃないよ」と苦笑した。
「ほら。彩美ってさ、黙ってると可愛いじゃん?」
「……」
「入学してしばらくは『雪の女王』の渾名もない頃だったから、男子達の告白ラッシュが凄かったんだよ。男って本当単純だよな。ちょっとガワが良いとさ、直ぐ惚れた腫れたって」
「……」
ここでの発言は男である紅にとって当然悪手なので、
「喜多見城は知らないかもだけど、バスケ部に
「……ああ、あの顔だけの」
女子生徒の方は記憶にないが、岸谷 颯太は紅の隣のクラスだ。
理由は解らないが、彼は紅が珍しく自分のクラスで過ごしている時等、たまに絡んでくることがある。少し凄めば直ぐに尻尾を巻いて逃げるため、紅の中では歯牙にかける必要のない人物としてインプットされていた。その分の時間が無駄だ。
「その、余計なお世話だと思うんだが……海原という女子生徒は、少し付き合う男を考えた方が良いんじゃないか? 岸谷は確か、同じクラスの女子にも粉をかけているだろう?」
「何だ、意外と知ってるじゃん。それだよ、それ。岸谷がさ、夏菜と付き合ってんのに彩美に告ったの。彩美は岸谷どころか、恋愛にすら興味ないから当然振るじゃん? そしたら岸谷は、振られたのが大層ショックだったみたいでさ。腹いせに『彩美に告白されて迫られた』みたいなニュアンスで、言い触らしたらしいんだよね」
「頭も悪ければ根性も悪いのか。救えないな……おっと」
ぽろっと零れ出た暴言に、紅は口を押さえた。
それを見ていた悠陽が「喜多見城、思った以上に話し易いし面白いな!」と歯を見せて笑う。
そうやって人の懐にするりと入って来る彼女の人の好さは、相変わらずのようだった。
「そんで、夏菜が本気にしちゃったんだよね。岸谷の話を。そしたらまあ、夏菜と彩美の全面対決みたいになっちゃって……アタシ、どっちの味方になることもできなかったんだ」
それもそうだろう。悠陽にとっては片や友人、片や部活の仲間だ。
このお人好しの少女には、無理難題だったに違いない。付き合いの薄い紅とて、安易に想像できた。
人はそれを八方美人だ何だと言うのだろうが、実際自分がその立場になって考えれば、如何に白黒つけることが難しいか解るだろう。
「結局まぁ、ウチのクラスの教師と夏菜の担任まで出て来て、事はようやく収まったって訳。あの時の岸谷の顔は見物だったな。真っ青通り越して真っ白でさ!」
「……その海原という女子生徒も、見る目がなかったな。所詮岸谷は顔しか取り柄がない」
「言うじゃん。お前もやっかまれた
悠陽がここまで襤褸糞に言うということは、岸谷の評判はその一件を切っ掛けに、がた落ちしたのだろう。
しかし調子良く話していた悠陽はふっと表情を陰らせると、重苦しい口調で告げた。
「……でも、夏菜は部活を辞めた。アタシが、アイツの味方になってやらなかったから」
「それは、その海原の勝手じゃないか? むしろそこに柳田が加わっていたら、更に面倒なことになっていただろう。お前の心持ちがどうであれな」
自嘲めいた笑みを浮かべ、悠陽が「ありがとな」と口にする。
そこまで縁のない紅に何を言われた所で、何の足しにもならないのだろう。それは彼女の表情が一切晴れていない時点で、明らかだった。
「以来彩美とも気不味くなっちゃってさ……本当岸谷、碌なことしないよな~」
――今世の『門螺彩美』の違和感はそれか。
そこでようやく合点がいった。
柳田 悠陽の存在は、『門螺 彩美』にとって『橋』のようなものだ。クラスメイトを始めとした、彩美と第三者を繋ぐ『橋』。
此度初めて悠陽と距離を置くこととなった『第34755世界』の『門螺 彩美』は、今までにない一種のカリスマ性のようなものを備えている。
あれは柳田 悠陽の存在が傍らにいないことによって作り出される防壁……彩美を守る鎧のようなものなのだろう。
皮肉なものだ。
失って得るものもある――否、『喜多見城 紅』という存在自体、母の命を喰らって生まれて来たものだ。
その点で今の『門螺 彩美』と喜多見城 紅は、似ているのかもしれない。
やれ色恋沙汰に鈍感だ何だと
執着にも、依存にも似たそれ。
麻薬のように中毒性があり、効果が切れれば激しい飢餓感に襲われる反面、満たされれば絶大な幸福感を覚えるのに似ている。
「……って、アタシ何話してんだろうな。こんな女子のいざこざなんて、お前に話した所でどうしようもないのに。でも喜多見城なら、何となく解決してくれそうな気がしたんだよね」
頬を掻く悠陽に紅は少し、ほんの少しだけ助言してやろうかという気になった。ただの気紛れだ。
紅にとっても『柳田 悠陽』という存在は、決して小さいものではない。
何せ三万回以上、彩美と笑い合う彼女を見て来たのだから。
「……諦めなければ、届くものもあるんじゃないか?」
「は?」
「お前のその、何事も
「……アタシお前と話すの、これが初めてだよな?」
「……彩美が、そう話していただけだ」
学業の成績は悪い癖に、こういう時ばかり鋭い。
彼女に備わる野性の本能が、そう告げるのか。
紅は咄嗟に彩美を出しに使った。バレれば睨まれそうだが、致し方ない。
数多の記憶が残るこの小さな頭蓋は、時折記憶が入り交じることもあるので困る。
金銭のように、大事なものはどこか別の場所に預けておければ良いのに。そんな詮無いことを考えた。
「そ、っか。彩美が……そうだよな。ありがとう喜多見城、お前案外良い奴だな! 彩美とも少し話してみるよ!」
言うが早いか、悠陽は来た時同様騒がしく戻って行った。
有言実行、猪突猛進な所は矢張どの世界の『柳田 悠陽』にも共通しているらしい。
嵐のような彼女に肩を竦め、多少上向きになった気持ちと共に空を仰ぐ。
青空に浮かぶ入道雲が、本格的な夏の訪れを告げていた。
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