第1話 日常は極彩色へ③
薄皮一枚越しに感じる刃物の冷たさに、
どんなに斜に構えていようと、彼女はまだ十六歳の小娘だった。
「俺の質問に答えろ。どうやってここに入って来た」
いつの間にか、彩美の正面に
ならばナイフを持っているのは、消去法で考えて
「どうって……」
彩美のなけなしの矜持が、無様に怯えることを許さなかった。
彩美の目が、
その少女は、先程彩美を鏡の中に引き摺り込んだ黒髪の少女と瓜二つだった。
だが黒髪の少女は勝ち気そうな、生意気そうな顔付きだったが、この白髪の少女は気弱そうな、おどおどとした印象を受けた。
加えて持てる色合いを反転させたような彼女達の姿形は、どこか浮世離れしていた。
あの黒髪の少女が纏っていたのは、黒い上衣に白い袴。黒い足袋に赤い鼻緒の白い草履。
目の前の白髪の少女が身に纏うのは、白い上衣に赤い袴。白い足袋に赤い鼻緒の黒い草履。
彼女達に共通するのは――鮮烈な赤。
「私はそこの女の子そっくりな子に、連れて来られただけよ」
「『そっくりな子』……?」
教室でのはにかみ具合をどこに置いて来たのかという無表情で、紅が眉を寄せた。
そして合点がいった様子で「
「山吹、離してやれ」
「了解」
彩美の喉元から
ナイフが離れた先から彩美は首を捻り、山吹を睨み付けた。彩美と目が合うと、山吹は「悪かったよ」と肩を竦める。
「アンタ達、何者なの。ここはどこ」
紅を見据え、彩美は語調もきつく問い質した。
不愉快だ。訳も解らずこんな所に連れて来られた挙げ句、凶器を向けられたのだ。腹の虫が治まらない。
怒りの籠った彩美の視線等物ともせず、紅が淡々と言った。
「まず、ここは正真正銘鏡の中だ。姿見を通って来たんだろう? お前をここに連れて来た少女は『黒姫』と言う。俺達の敵だ」
「は?」
―― 一体何の話をしている。
紅は、彩美の困惑を余所に続ける。
「『並行世界』というものを、聞いたことがあるか?」
「……SF映画とかによくあるやつ? 別世界とか、そういう」
「そうだ。たとえば」
紅が、制服のポケットからハンカチを取り出した。
白地に刺繍がされた、シックなものだ。綺麗に畳まれ、アイロンがきちんと当てられているのが酷く癪に触る。
八つ当たりのようなことを考えていると、紅は持っていたハンカチからぱっと手を離した。
それは空気を含むと広がって落下し、水面の如く透明な床に波紋を作る。
「……?」
――何も起こらない。
「今このハンカチは俺が、俺の意思で落とした。だが俺が、ハンカチを落とさなかった世界があったかもしれない。ここで二つの世界が生じる。これが並行世界だ」
紅はハンカチを拾い直すと、折り目に沿ってきっちり畳み直した。
ハンカチは一切濡れていなかった。矢張、この床は水ではないらしい。
「『黒姫』は既に過去となった並行世界を管理する者だ。そして俺達が今いる――時を刻み続けるこの世界を敵視し、破壊せんとする者。……この『並行世界』というのは俺達が便宜上に用いているだけであって、広義では意味が変わってくるかもしれないが」
情報処理が追い付かず口を挟めない彩美を尻目に、紅は背後の難原姉弟と白い少女を顧みた。
「彼女は『
「……漫画やアニメの観過ぎじゃない? 信じられる訳ないでしょ、そんなの」
「何故だ?」
さぞ不思議そうに首を傾げる紅に、彩美は「何故って……」と狼狽える。
当然だろう。そんな非現実的なもの、信じられるはずがない。
「黒姫によって、お前は確かに鏡の中に引き摺り込まれた。だからここにいる。――明快では?」
「……」
その通りだ。返す言葉も見付からない。
彩美は口を閉ざすしかなかった。
「……紅、どうするん?」
黙り込んだ彩美に代わるように、
警戒心が露になった彼女の声音からは、彩美に対する敵意がひしひしと伝わった。
「俺達のこと、白姫のことがこうして明るみになった以上、野放しにする訳にもいかないだろうな」
「まあこんなこと言い触らした所で、変人扱いされるのは彩美の方やろうけどな!」
そう快活に笑うのは
彩美はそこで、ふと疑問に思う。
彼等は何故、彩美の名前を知っているのだろう。
紅はクラスメイトであるため、誰かから彩美の名前を聞いた可能性はある。
だがそれ以外の面子とは一切関わりもなく、こうして顔を合わせたのも初めてだ。
――なのに何故、紫は彩美の名前を知っていたのだろう。
「仕方ない……『
紅の、温度のない声が彩美の耳朶を打つ。
彼等のやり取りを静観していた白姫が、そっと目を伏せた。
第1話 日常は極彩色へ 完
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