雪の女王 ⅩⅤ
流血表現、死、死体、自傷の描写があります。これらが苦手な方はご注意下さい。
反響した
お互いがお互いに感じていた擦れが露になった瞬間であり、最早その修復が困難であるのは明らかだった。
「アンタが見てるのは誰!? アンタの言う『
「アタシはアタシしかいない! 今の、今のアタシを見なさいよ……『
彩美が普段の冷静さをかなぐり捨てて、駆け出した。
一心不乱に大鎌を振るう様は、狂気染みている。
その一振り一振りに彩美の強い憎しみと激しい怒りが込められ、それ故に単調な動作を
攻撃をいなされ、頭に血が上った彩美は気付いていない。
紅は繰り出される攻撃を避けながらも、彼女をとある地点へと誘導していた。
「ちょこまかと……! いつまでそうするつもり!? そういう、アタシを歯牙にもかけない態度がムカつくのよ!!」
「いいや。これで――成った」
紅が素早く指を組み、印を形作る。
刹那、彩美の足元が目映く輝き、光の檻が彼女の周囲を覆った。
舌打ちを溢し、彩美は即座にそこから逃れようと身を逸らす。だが一歩遅かった。
「『
頭の天辺から爪先まで、まるで雷撃に打たれでもしたかのような衝撃が、彩美の身体を一直線に走った。
「あ、がっ……ぐ、あぁ……」
ガクガクと震える口唇から、
震えは全身に伝わり、彩美はガクリと膝を折った。
彼女がうつ伏せに倒れると、鏡面が激しく波打つ。
そこに映る己の顔が憎々しげに歪んでいて、余りの醜悪さに思わず自嘲した。
確かに。これでは、この高潔の士たる『喜多見城 紅』の隣に立つには相応しくない。
身体が痺れる。指先の一つも動きそうにない。
朦朧とする視界の隅に、中履きの爪先が入り込んだ。
まめに持ち帰って洗っているのが窺える、汚れのない白。
こんな所まで清廉潔白とは……腹の底から笑いが出そうだった。
亀の如き動きで何とか顔を持ち上げる。
それは敗者としての、彩美の意地と矜持だった。
見上げた視線の先で、紅の憐憫に満ちた瞳と目が合う。
陰る彼の瞳が、この時だけは目の前の『門螺 彩美』を映し出していた。
「ようやく、アタシを見たわね……紅」
囁きにも似たそれが耳に入ったのか、紅は眉を寄せた。
二人の間に流れた沈黙は、荒涼とした砂漠のようだ。渇きを潤したくとも、あるのは見渡すばかりの寒々とした荒野ばかり。
歩いても歩いても、そこに水源等は見当たらない。彩美と紅。二人を表すのに、これ程見合った比喩はない。
そんな二人だけの世界に流れた静寂を、
紅は彼を振り返ることなく、「終わったのか」と淡々と尋ねる。
「……ああ。後味わりぃよ。
「……その口振り、殺したのか?」
「まっさか。気絶させただけだよ。でも顔見知りに暴力振るうのは、躊躇するだろ?」
冷めた目で彩美を見下ろす山吹の後ろから、
「……すまん、
「だろうな。彼女にとっては、いずれ己のものになる世界の一つだ。――ここも」
すまなそうにする紫にそう返し、紅は再び彩美に目をくれる。
このままでは繰り返しの条件を満たせない。
ならば彩美が、彼等が、取るべき選択肢は限られていた。
彩美の心を読んだように、山吹が彼の能力『
彼は振り向くと、倒れ伏す彩美を呆然と見詰めている青の胸ぐらを掴んだ。
「――お前が責任を取れ。
厳しい口調で告げた山吹が、されるがままの青の手に刺突剣を押し付ける。
言葉を失う青を尻目に、山吹は畳み掛けるように続けた。
「紅の意に反してまで彩美を連れて来た挙げ句に、この様だ。お前がこの彩美に何を思い、何を感じていたのか。俺が知る由もないし、知りたくもないが……それがこの結果だ」
山吹は半身になると、無様極まりない彩美の姿を青にまざまざと見せ付ける。
冠する名前の通りに顔を青褪めさせる青に、彩美は
青が山吹に背中を押され、ふらふらとした足取りで彩美の目の前に立つ。
剣を握る手が小刻みに震えているのが、肉眼でもよく分かった。
(――馬鹿な男ね、青。アタシみたいな女に心を寄せるなんて)
だから、彩美なんかに付け入られるのだ。
彩美の目が紅しか映していないことなど、彩美とそれなりの時を共に過ごした青ならば、直ぐに見抜けただろうに。
青も彩美と同様に、期待していたのかもしれない。あるはずもない世界を。
いつまでも剣を握り締めるだけの青に、山吹が痺れを切らし「おい」と言いかけたのを、紅が遮った。
「――俺がやる」
青から剣を奪い取った紅がさらりと、まるで当然であるかのような口調で言った。
それに山吹が顔色を変え、紅の肩を掴む。
「待て、紅っ!」
「そもそも、最終的に青の意見を許可したのは俺だ。ならば俺が責任を取るべきだろう?」
「っ! 俺は、そういう意味で言ったんじゃ……!」
「解ってる」
山吹が目を見張り、唇を震わせた。
恐らく紅は――笑ったのだろう。この場に似合わぬ、大層優しい顔で。
「……いつもありがとう、山吹」
力を失った山吹の手から逃れるのは容易かろう。
紅はするりと山吹から離れ、彩美の眼前に立つ。
彼は彩美に何を言う訳でもなく、表情を一切変えることもせずに、その手に握る刺突剣を――彩美の胸へと振り下ろした。
文字通り、心臓を貫かれるような痛みだった。
あるいは割れた鏡の破片の鋭さで、抉られるのにも似ているか。
しかしそれ以上に彩美の胸を襲ったのは――後生大事にしていたものを無惨にも壊されたことによる、虚無感だった。
そしてこれは彩美が生まれて初めて感じただろう、絶望でもあった。
「あは、あはは……」
人間余りに深い絶望や諦念を覚えると、最早笑うしかなくなるらしいというのは、至って無駄な知識としては知っていたが……まさかこの自分が経験する羽目になろうとは、思ってもいなかった。
彩美の胸から溢れる、深紅に染まった数多の感情の成れの果ては、この狂ったような鏡の世界で――生々しい生の匂いをさせていた。
「……許さない」
気付けば、彩美はそう口にしていた。
空気を含んだ血液が、ごぼりと口唇の端で泡立つ。
「アタシはアンタを許さない、許さないわ……『喜多見城 紅』……!!」
彩美はありったけの愛憎と怨嗟を込めて嗤い、笑った。
白む視界にそれでも愛しさを捨てられぬ紅の顔を映しながら、最期に皮肉気な表情を一つ残し――そこで『門螺 彩美』の意識は永遠に失われた。
「――許してくれなくていい。憎んでくれていい。……また会おう、
二人の壮絶なやり取りを黙って見届けた山吹、青、紫は、紅の静かな声にはっと我に返った。
口の端だけに笑みを浮かべた紅が、三人を振り返り「悪いが…… 一人にしてくれないか?」と困ったような口調で続ける。
山吹は彼の顔を見てその意図を察すると、深く溜め息を吐いた。
山吹はこれから紅が何をするつもりなのか察した上で、彼の申し出を受け入れる。
「……行こう。む~ちゃん、あ~ちゃん」
「……うん」
山吹に促され、紫が何度かこちらを振り返りながらもその場から離れる。
青は何か言いたげに一度紅に手を伸ばしかけたが、山吹に名を呼ばれ、逡巡の後に先行する二人の後を追った。
「……すまない」
紅は我儘を聞き入れてくれた山吹達に最早聞こえぬだろう謝罪を溢し、事切れた彩美の胸から剣を抜いた。
紅は剣を握り締めたまま彩美の傍らに腰を下ろすと、彼女に、己に、言い聞かせるように語り始める。
「今の俺も今回のお前も『門螺 彩美』と『喜多見城 紅』の、それぞれの一面に過ぎない。俺にとっては『喜多見城 紅』という存在が『
その時紅の頭上から、ハラハラと雪の結晶にも似た何かが降り注いだ。
仰ぎ見ると、紅のいるこの『第34755世界』に深い亀裂が入っていた。
『輪廻』を持つ彩美の死により、崩壊が始まったのだ。
「……また繰り返してしまうのか」
紅は諦めを多分に含んだ呟きを洩らし、眠るように息絶える彩美へと視線を落とす。
「これでは『雪の女王』というより、『眠りの森の美女』か。……は。『美女』って柄でもないか、お前は」
彩美の髪に優しく触れながら、その指通りを感じる。
せめて彼女が生きている内にこうしていれば、何かが変わっていたのか。
全て終わってしまった以上、考えても詮のないことだが。
「……俺は『
「でもお前となら、この世界の『
答えがないのを解りきった上で心情を吐露し、紅は極々自然な動作で――己が腹に剣を突き刺した。
紅の意図を理解した上で、『刹羅』を解かなかった山吹には感謝しかない。
本来ならばこんな使い方をするべきではない。
ましてやあんなに優しい男の力を。
それでも山吹が、次の世界で紅を責めることはないのだ。
そういう奴なのだ。
紅は微かに笑うと、背中からその場に倒れ伏した。
消失する世界の欠片が、音もなく紅へと降り注ぐ。見上げたそこは、冬の寒空にも似ていた。
何故だか堪らなくなって、紅は頑是ない子供が雪を掴もうと空に手を伸ばすように、右手を持ち上げる。
既に感覚のない指先では、触れたそれに温度があるのかすら解らない。
「……はは。本当に雪みたいだな。なあ、彩美……」
紅の目尻を、一筋滴が伝う。
滲む視界を雪のせいにして、紅は目を閉じた。
そんな二人を悲しげに、寂しげに見詰める存在があった。
「繰り返しましょう。何度でも。貴女の望む結末が得られるまで――彩美さん」
崩壊する世界で、
そうして世界は――。
雪の女王 完
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