第9話 全ての色をぶちまけて⑥
「私を『
「……そうさせるつもりも、説得されるつもりも貴女にはないでしょう。
嘲け笑っていた黒姫の顔が固まった。口の端に笑みを残しつつも、深淵を連想させる黒い瞳は白姫の真意を推し量ろうと細く歪められている。
「私にも、そのつもりはありません。ここで終えるのです、私と貴女は」
「――は、随分とよく回る口だ」
黒姫は、上衣の胸元から折り畳みナイフを取り出した。彼女の手に握られたそれは、巫女服を纏った少女が持つにしては不釣り合いな代物だった。しかし、その刃が持つ輝きは本物だ。
黒姫は、ナイフの刃先を真っ直ぐに白姫へと向ける。
「死ぬのが怖いか、白姫?」
「いいえ。
それに、何よりも怖いのは『死』などではない。
白姫は自身と瓜二つの妹の姿から目を離すことなく、心の内で呟いた。
白姫が何よりも恐れているのは、この肝計が黒姫に気付かれること。
それは即ち、白姫達の敗北を意味する。
よって彩美が『第1世界』に辿り着いたと確信できるまで、黒姫の目を自身に引き付けておく必要があった。
「そうか――ならば死ね、白姫。妹の私のために。今まで繰り返してきた数多の彼等のために。死んでしまえ、お姉様」
黒姫が駆け出した。
彼女と白姫自身には何の力もない。見目相応の子供の体力と腕力しかなく、走る速さとて普通の子供と同じ。ならば黒姫の振るう凶器も、白姫にとて避けようと思えば避けられるものに過ぎない。
だがしかし白姫は、迫り来る凶刃から目を逸らさずただ一心に黒姫を、妹の姿をその瞳に映す。
そして彼女はナイフの切っ先を――黒姫を受け入れるかのように両手を広げた。
鏡合わせにも似た二人の視線が交錯すると、黒姫の瞳だけが大きく見開かれる。白姫はふわりと微笑み、眦を下げた。
黒姫の勢いは止まらず、鈍色に光る刃は吸い込まれるようにして白姫の腹部へと突き刺さった。
白姫が纏う白の上衣、白刃が突き立てられた辺りからはじわじわと鮮やかな赤が広がり、それはナイフの柄を、黒姫の手を伝ってポタポタと滴り落る。
愕然とした表情を浮かべる黒姫を包み込むように、その背中に両腕を回した白姫は――小さく、しかしはっきりと告げた。
「――この時を待っていました」
背後から重い衝撃を感じた。
刹那、それは鋭い痛みとなって黒姫の身体を蝕む。
「な、んだ? これ、は……」
黒姫の唇を、一筋の赤が流れ落ちる。
彼女の胸の中心からは鋭い刃の切っ先が生えていて、白姫共々二人を貫いていた。
「
腹部と胸部の二ヶ所に致命傷を負いながらも、白姫の口調は明瞭なものだ。
彼女の手に握られているのは、十字架を模した刺突剣。それは『第34755世界』の『
「初めから、これが狙いだったのか。貴様は……」
力を失い膝を折る黒姫だが、刺突剣と白姫とが倒れ伏そうとする彼女の身体を支えた。
「……私達が同時に死を迎えたとして。時を刻むこの世界の……『第34756世界』の彩美さんが貴女の残した『第1世界』の『門螺 彩美』に取って代われば。『第34756世界』が、この円環が失われたとしても――彩美さんは『第1世界』を生き続ける。命は続くのです。接ぎ木のように。終わりを迎えたフィルムに、新たなフイルムを繋げたように」
「はは、博打も良い所だ。これは『あの方』……私達にとっての『第1世界』である『門螺 彩美』本人が創り出した円環……創造主の意思を、私達物語の登場人物が捻じ曲げることなど……」
「それでも。私は諦めたくなかった……彩美さん達の未来を」
「そう、か。私達も元々は創造主である『門螺 彩美』の意思、その思考を反映したもの……私達は彼女の想いであり、希望であり、絶望でもあり……願いだったな」
「しかし数多の並行世界の『門螺 彩美』の、紅さん達の死を悼んだ貴女の感情は……黒姫、貴女だけのものです。それは私も同じ。同じなんです、黒姫」
白姫は、自身に凭れ掛かる妹の身体を優しく抱き締めた。
過去という名の並行世界は未来へと託され、新たな時を刻み始めるのだ――今、この瞬間から。
白姫の体温に触れると、黒姫は諦めたように目を伏せる。
本来過去も未来も円環ではなく、一本の線であるべきなのだ。誰もが、戻れぬ過去に思いを巡らせるように。
黒姫は億劫さを覚えつつも、重い瞼を持ち上げる。
そこには致命傷を負っているとは思えない、慈愛に満ち満ちた笑みを浮かべる白姫の姿があった。
その表情に、黒姫にとっての『第1世界』――彼女に物語の導き手としての役割を与えた『門螺 彩美』が重なる。
創造主――それは白姫と黒姫にとって、母親のようなものなのかもしれない。
「……還ります。貴女の下に……」
白姫の温かな腕の中は、羊水で満たされた胎の中にも似ていた。
「……ええ、還りましょう。黒姫、愛しい私の妹」
黒姫は再び目を閉じる。そして彼女は母に縋る赤子にでもなった気持ちで、二度と目覚めることのない眠りに身を委ねた。
腕の中の重みが増し、白姫はゆっくりとその場に腰を下ろす。
役目を終えた『刹羅』が光の粒子となり、本来の持ち主である山吹の下へと還って行く。
徐に上を見上げると、『第34756世界』の崩壊が始まっていた。降り注ぐ世界の欠片は、どこか雪にも似ている。
いつかの、どこかの世界。
今まで見守って来た数多の世界の記憶が、走馬灯のように頭を過る。
「これで、終わったのですね……」
白姫の胸部、腹部からは、出血が止めどなく続いている。
白姫とて気力で持ち堪えていたようなもの。黒姫を見送った今、彼女は体力、気力共に限界だった。
物言わぬ妹の亡骸を抱き締めると、その脱け殻に残る体温から、触れ合った部分から、白姫と黒姫という『個』としての境界線が薄れていく。
過去があるからこそ、未来へと繋がるように。
未来があるからこそ、過去があるように。
白姫の視界はどんどん黒一色に侵されて行き、自分の呼吸音も遠く、小さくなっていく。
抱える黒姫の輪郭もあやふやになり、白姫は穏やかな気持ちで目を伏せた。
――あとは、沈黙。
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