雪の女王 ⅩⅠ

 いつかのむらさきの時同様、くれないは屋上に呼び出されていた。


 しかし今回紅を呼び付けたのは紫ではなく、彩美あやみだ。


 何故紅を呼び出すとなると、皆屋上なのか。

 紅にとっての屋上は、学校の中で誰に何を咎められることなく唯一静かに過ごせる場所であり、一番好きな場所であることには違いないが……この寒空の中、わざわざ屋上を指定しなくてもと、思わないこともない。



「彩美、一体どうした?」



 前置きもなく本題に入ろうとする紅に、彩美が「情緒のない男ね」と肩を竦め、ガーゼで覆われた頬を引き吊らせた。


 ぎこちないそれは、笑みを浮かべようとしたのか。


 ガーゼを留めているテープに邪魔され、皮膚が突っ張るのだろう。

 顔には怪我がないものの、そう言う紅も制服の下は包帯塗れだ。


 連日黒姫くろひめ達並行世界からの侵攻が激しさを増し、紅の『因廻いんね』を用いていては今後立ち行かなくなるとの判断から、自然治癒に任せている。

 難原なんばら兄妹や山吹やまぶきも、そう大差ない状態だ。



「……アタシのクラスに、『藤垣ふじがき 月夜つきや』という男子生徒がいるんだけれど」



 その名前に聞き覚えがあり、紅は頭の中の引き出しを片っ端から開け放った。

 そしてぼんやりと思い出したのは――今世で初めて彩美と邂逅する切っ掛けとなった、あのカツアゲ事件だった。



「……ああ、カツアゲの」



「そいつよ。その『藤垣 月夜』。彼、何だか様子がおかしいのよ。変に上の空って言うか……最近、黒姫との戦いが激しくなっているでしょう? もしかしたら、こちらの世界の人間を誑かしているんじゃないかと思って」



「……」



 内通者の疑いは既に出ているが……だが、それにしては違和感がある。

 何故そこで名前が挙がるのが、紅達とそこまで接点のない『藤垣 月夜』なのだ?


 強いて言えば彩美やあおは彼と同じクラスだが、カツアゲ事件の一件を省みるに、然程縁があったとも思えない。


 『藤垣 月夜』でなければいけない、理由は何だ?


 ふと浮かんだ疑念に意識を割かれ、彩美の声掛けに気付けなかった。

 何度目かのそれにようやく応答し、紅はどこか期待に満ちているようにも見える彩美の顔を見下ろした。



「……分かった。俺も注意して見ておく。『藤垣 月夜』の一件で、何かあったら引き続き教えてくれ」



「ええ。あおにも伝えておくわ」



「頼む」



 紅がそこで口を閉ざすと、「ねえ」という彩美の硬い声が響く。



「アンタは白姫しろひめを、『因廻』を――果てのないこの戦いを許せる?」



 彩美の質問の意図が読めず、紅は困惑した。

 否。何か予感めいたものを感じながらも、目を逸らしたかっただけなのかもしれない。



「――許せるも何も、俺達にはこれしか道がない。俺は黒姫が管理する停滞した世界にこそ先はないと思っているし、何よりもお前の……お前達の先が、未来が見たい」


「その気持ちは、俺達の始まりである『第1世界』から変わらない」



「……そう」



 ――また間違えた。


 彩美の沈んだ返答が、その答えだった。

 だが何を間違えたのか、紅には理解できない。

 お互いを想う気持ちは同じだが、方向性が異なっている彼等の感情はどこまで行っても交わることはなく、ただ空しく平行線を辿る。

 

 気付けば、彩美は立ち去った後だった。

 屋上に取り残された紅は、一人ぼうっと佇む。

門螺かどにし 彩美あやみ』が大切であるという事実は、紅にとって動かしようのない事実だ。

 だが、それだけでは彼女は納得しない。


 彩美にとっての正解が何なのか――紅には解らなかった。


 二人の間に出来た隔たりは、最早修復不可能なのだろう。

 元に戻すことができないのならば、後は進むしかない。


 ――その先に、何も残らなかったとしても。












 帰宅した彩美は、衝動のままに飾り棚の小物や本を払い除けた。

 山吹から貰ったクレーンゲームの景品、紫から貰ったヘアピン、あおがくれたキーホルダー ……彼等との思い出を、彩美は全て床に落とす。


 ――そういえば、紅から貰った物というのは一つもない。


 紅が彩美に残してくれるのは、形なきものばかりだ。


 黒姫達並行世界の存在を知った上で、形ある物を贈り合うことが如何に空しいことなのか、彼は解っているのだろう。


 もしも彩美達が黒姫に敗北した場合、今いるこの世界は数多の並行世界の中の一つとなり、ただ始まりから終わりまでの時間軸を繰り返すだけの……まるでビデオテープを巻き戻すかのような、そんな世界へと変わってしまう。

 彩美は癇癪を起こしたように、一心不乱に床の物を踏みつけた。

 異物感が足裏に痛みを与えたが、そんな些細なこと等気にすら留めなかった。


 壊してやりたい。

 白姫も、この世界も――何もかも。



「――ははぁ、荒れてるな」



 からかい交じりの冷笑が、彩美の横面に叩き付けられる。

 姿見から現れた黒姫が、ニヤニヤと厭らしい笑みを浮かべていた。

 彩美は肩で息をしながら、「何の用?」と刺々しい口調で問い質す。

 我ながら、瀕死の獣のような必死さだ。



「私に当たるな、餓鬼め。それで? 喜多見城きたみしろ くれないとのは、上手くいったのか? ――まあ、聞かずとも解るがな」



「……なら聞かないで頂戴。白々しい」



「言ったろう。あれをこちらに引き込む等、到底無理な話だと。幾ら悪ぶろうと、あの者の魂は高潔だ。だからこそ三万回もの世界を、折れず、屈せずここまでやって来れた」



「……悪かったわね、アタシは安い魂で」



 己の拗ねた声音を聞くや否や、彩美は冷静さを取り戻した。

 いずれにせよ、どこかで破綻することは解っていた。彩美と紅とでは求めているものも、その目的も違い過ぎる。


 こうなることは明白だった。

 今日、それが決定的なものになっただけのこと。



「そう拗ねるな。私は、諦めることを怠惰だとは思わん。諦念というものは、ある種人間の防衛反応だ。これは持論だがな」



「……防衛反応?」



「そう、己が心を守るための」



 芝居掛かった身振りで、黒姫は自身の薄い胸の中心に手を置いた。

 細く生白い指先が蠢く様は、蛇が身体をくねらせる姿を連想させる。


 ――いや。こうして彩美の心に狡猾に付け入り手足として操っている時点で、この少女自体が蛇なのかもしれない。


 蛇にそそのかされて禁断の果実を口にし、楽園を追い出された人間の原初ともいうべき男女は、案外今の彩美のような気分だったのだろうか。



「奴との交渉は決裂……なら、解っているな彩美?」



「……ええ。もう良いわ。どうせ白姫を消せば、全ては丸く収まるはずだもの」



 姿見にちらりと映った自分の顔に、彩美は内心でせせら笑う。


 醜く歪んだ笑み――高潔な男の傍らに立つには、矢張分不相応だった。

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