雪の女王 ⅩⅡ

 そして――その時はやって来た。

 あおは実験を行うため理科室に居たが、授業開始早々異変に気付くこととなった。



藤垣ふじがき藤垣ふじがき 月夜つきやはいないのか? 保健室か? 何か聞いてる奴はいるか?」



 点呼をとる理科教師に対し、保健委員の生徒が「何も聞いていません」と明瞭な口調で答える。


 前の授業には出席していたはずの月夜の姿が、さっぱりと消えていた。

 不審な動きをしているとの彼を警戒していたのだが……移動教室を逆手に取られてしまった。

 言い様のない焦りを覚え、青は隣の彩美に耳打ちする。



「……彩美、この場に残ってくれん? 私は藤垣 月夜を探して来る。このまま見過ごしてはおけんし」



「――解ったわ。気を付けて」



 短いやり取りを終えると、青は教師の点呼を遮って手を上げた。



「――先生、教科書を間違って持って来てしもうて……教室に取りに戻ってもええですか?」



「あー……難原なんばらか。真面目なお前が珍しいな。良いぞ、取って来い」



「おおきに。ほな取って来ます」



 優等生然とした淑やかな足取りで理科室から出てると、青は先程まで二重三重に被っていた猫の皮をかなぐり捨て、走り出した。


 ――どこだ。藤垣 月夜が向かうとすればどこだ?


 青はスカートのポケットからスマートフォンを取り出し、走りながらメッセージアプリを起動させた。

 青、むらさき山吹やまぶきくれない、彩美。五人が参加するグループトークの画面を開き、キーボードを素早くフリックしてメッセージを入力する。詳しく説明している余裕はない。



『藤垣 月夜がいない。探してくれ』



 最低限のことだけを入力し、送信した。

 付き合いの長い彼等ならば、青が望んでいることも理解してくれるはずだ。

 青は月夜を探し、風のように廊下を駆け抜けた。






 計算上そろそろ出席日数が不味いなと思い立った紅は、珍しく授業に参加していた。

 しかし三万回も繰り返していれば、授業の内容はしつこい程に記憶に刻み込まれているため、耳にタコが出来そうだった。

 紅は一切板書を取ることなく教科書を手持ち無沙汰に斜め読みしてみたり、廊下のポスターの文字がどの位見えるかといった、一人視力検査を催していた。


 紅の席は廊下側の一番後ろである。

 目立たない席である上、更には前の席に座る体格の良い男子生徒が、紅の姿をすっぽり隠してくれている。……ちなみに彼は柔道部だ。

 そんな広く逞しい男子生徒の背中は、紅の良い隠れ蓑だった。


 彩美と青のクラスの担任で、国語教師でもある桜井さくらい 明子あきこの穏やかな声が教室に木霊する。

 彼女の声は程良く眠りを誘うようで、紅同様後方の席に座る生徒数人が、こっくりこっくりと船を漕いでいた。



「……じゃあ、椿下つばきしたさん。三幕第一場、ハムレットの最初の台詞から読んでくれる?」



「はい」



 指名された椿下―― 一年六組の学級委員長である、椿下つばきした星羅せいらがハキハキとした返事をすると、姿勢良く立ち上がった。

 一つ一つの動作を取ってみても、絵に描いたように真面目なのが伺える。

 星羅は指示されたハムレットの台詞を、その内容に反して淡々とした口調で読み上げた。

 


「『生きてとどまるか、消えてなくなるか、それが問題だ。どちらが雄々しい態度だろう、やみくもな運命の矢弾やだまを心の内でひたすら堪え忍ぶか、艱難かんなんの海にやいばを向け それにとどめを刺すか』」


「『死ぬ、眠る――それだけのことだ。眠れば 心の痛みにも、肉体が受け継ぐ 無数の苦しみにもけりがつく。それこそ願ってもない 結末だ。死ぬ、眠る。眠ればきっと夢を見る――そう、厄介なのはそこだ。人生のしがらみを振り捨てても 死という眠りのなかでどんな夢を見るか分からない』」


「『だから二の足を踏まずにいられない――それを考えるから 辛い人生を長引かせてしまう。でなければ、世間が鞭打つあざけりを――……』」



 紅は星羅の音読を聞き流しながら、彼女がいる窓際をふと見やる。


 


 何人かの生徒が異常に気付き、窓硝子を唖然とした表情で眺めている。

 人智を超えた自体に、思考が停止してしまっているのだろう。



「――窓から離れろ!」



 紅の鋭い叫びに、クラスメイト達が一斉に彼の座る廊下側を振り返った。

 波紋の一つから、女のものと思われる指先が覗く。


 クラスメイト達の退避を待っている余裕はない。


 紅はスラックスのポケットから符を数枚纏めて取り出すと、窓硝子に投げ付けた。

 そして素早く印を結び、力ある言葉を口にする。



「『おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まに はんどま じんばら はらばりたや うん』!」



 符が一瞬光り輝いたかと思うと、刹那――凍った湖の水面が割れるが如く、窓硝子に大きな亀裂が走った。

 波紋の一つから少女の顔がぬうと現れ、嗤う。



「うふふ、残念」



「――消えろ」



 紅が短く告げると同時に、符の貼られた窓硝子が粉々に砕け散った。


 大きな破片を残すと、そこから黒姫の手のものが現れる可能性がある。


 紅は窓際に駆け寄り、付近の生徒達に怪我がないか検分していく。

 クラスメイト達からは、叫び声の一つも上がらない。余りに非現実的で、理解が及ばないのだろう。

 紅は腰を抜かして呆然と座り込む星羅の正面に、片膝を突いて目線を合わせた。



「委員長、怪我は?」



「え、あ……大丈夫。喜多見城きたみしろ君が助けてくれたんだね、ありがとう」



 さすが、星羅はどの世界でも落ち着いている。

 何の因果か、紅はこの椿下 星羅と同じクラスになることが圧倒的に多い。

 他の世界では、副委員長として星羅を支えたことすらある。

 それ故、彼女にはある種の親しみを持っていた。



「床は硝子片があるから……立てるか?」



 紅が手を差し伸べると、星羅は彼の手の平を数秒見詰め、恐る恐るといった風に掴んだ。

 彼女にこのように警戒されたことは今まで一度もなかったのだが……不良の『喜多見城 紅』という役を作り込み過ぎたのかもしれない。

 星羅とは事務的な内容とは言え何度か話をしたことがあったので、それだけに少し傷付いた。


 星羅に手を貸して立ち上がらせ、彼女に怪我がないか再度確かめると、紅は教壇に座り込む国語教師の下へ向かう。



「――桜井先生」



 紅の呼び掛けに我に返った明子は、僅かに身動ぎした。立ち上がろうとしたのだろう。無駄な努力だったようだが。

 紅はそんな彼女を尻目に、有無を言わせない口振りで「俺のことは、くれぐれも内密にお願いします」と素っ気なく言った。



「喜多見城君、これは、貴方は一体……」



「先生は知る必要のないことです」



 紅は明子を突き放すと、クラスメイトが誰一人動けない中、平素の足取りで教室の出入り口に向かう。

 しかし引き戸に手をかけた紅を、呼び止める者がいた。



「喜多見城君、どこに行くの!? またさっきみたいなことがあったら、危ないわ……!」



 星羅が血相を変え、今にも戸を開けて教室を出ようとする紅の腕を引いた。

 まさか彼女に止められるとは、思ってもいなかった。

 普段よりも幼げな紅の表情に、自身の強引さを感じ取ったか、星羅が気恥ずかしそうに顔を赤らめる。



「……心配をしてくれてありがとう、委員長。でもこれは、俺がやらなくてはいけないことだから」



 紅は星羅の手から己が腕を引き抜き、教室の戸を潜る。

 どこのクラスからだろうか。教師の声が遠くから聞こえ、現状との落差に激しい違和感を覚えた。


 ――真実場違いなのは、異物であるのは、紅の方なのだが。


 学ランのポケットに無造作に突っ込んでいたスマートフォンが、鈍く震える。

 取り出して画面を確認すると、青からのメッセージが届いていた。紅は内容を認め、嘆息する。


 いずれ動きはあると思っていたが……。


 実際目の当たりにすると、何とも重苦しい心地になる。



「――喜多見城君、ちゃんと戻って来る……?」



 紅の様子から言い様のない不穏さを感じたか、星羅が弱々しく尋ねた。

 竹を割ったような性格の彼女が、このように躊躇いを見せるのは珍しい。

 意外さを覚えつつも紅は短く「さあな」と答えた後に、彼女を巻き込んだ身としてそれでは不誠実かと思い直して、言葉を付け足した。



「……『やみくもな運命の矢弾やだまを心の内でひたすら堪え忍ぶか、艱難かんなんの海にやいばを向け それにとどめを刺すか』」


「『死ぬ、眠る――それだけのことだ』」



 訝しげに眉を寄せる星羅に笑いかけると、紅は今度こそ教室を後にした。

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