第9話 全ての色をぶちまけて⑧
作中に流血表現、死体、死を連想させる描写がございます。お読み頂く際には、十分に御注意下さい。
痛みはない。
出血している感覚もない。
しかし
スカートから滲み出したそれは青の足を伝い、地面に決して小さくはない血溜まりを作り上げていた。
終わるのだろう。
『第34756世界』も――この円環も。
少し薄暗さの増した視界の隅で、最愛の妹が
紫と彼女が使役する狐神
彼は手離させられた拳銃を取り戻す余力すらないのか、舌打ち混じりに新たな銃を創造する。
月夜を援護するように、
空気を裂く、鋭い風切り音。
田彦が采配を振るい鞭の軌道を逸らす。鏡面に叩き付けられた鞭の先は、幾つもの硝子片を宙に舞い上げた。
青はその瞬く破片の中に、ちらちらと別の輝きが混じっているのに気付く。
「これは……」
『第34756世界』――青達の生きる世界が、崩壊を始めていた。
ということは――。
「……そうか。遂に、終わったのか。
青は自分よりも幼い見目の少女が迎えただろう結末を思い眉を寄せると、
月夜と
これ以上、文字通り血を流した所で無意味だろう。
ここから先、青や紫が死のうと月夜達が死のうと、『第34756世界』の崩壊は免れない。何をしようとも、その事実が覆ることはない。
「――どうする。あんさん等の頼みの
青は静かに尋ねた。紫は彼の隣でじっと息を潜め、成り行きを見守っている。
そうは問うも、青には確信があった。己の敗北を認め、このまま大人しく世界の崩壊を見届けるような相手ではないということへの。
「関係ない。僕は黒姫に従っていた訳じゃない」
「そうね、
崩れ行く世界には目もくれず、月夜と星羅は再び動き出す。
「やっぱり、そう簡単に退く相手やないか。厄介やな……!」
「やろう、青!」
「解っとる!」
青は傍らに立つ狐神
二人横並ぶ背中は神々しくて力強く、
『第34756世界』の終わりが――否。
繰り返す並行世界、そのものの終焉が近付いているからだろう。こんなにも感慨深く思うのは。
『『
怪鳥を模した焔が、月夜と星羅を包み込む。
肉の焼ける音。毛髪が燃える嫌な臭い。熱さに呻く悲鳴はそれがたとえ幻だと、狐神達の手の内を知っていたとしても、見ていて気分の良いものではない。
今彼等が感じている苦痛は、鼻を刺す蛋白質が焦げる臭いは、全て本物だ。命と田彦の持つ能力が合わさることで、脳にそう誤認させている。
曲がりなりにも幾度となく顔を合わせ、時には同じクラスになった同級生の凄惨な様は、青が顔を顰めるには十分だった。
――だからだろうか。
彼等に気を取られ、彩美と
そもそも青の中で、
俯いて時折怯えるように首を振る姿は正気を保っているようには見えなかったし、月夜や星羅の反応からしても、明子が戦えるような状態とは思えなかったからだ。
「――青!」
突然、血相を変えた紫が青の前に躍り出た。
学ランに身を包んだ華奢な背中。紫掛かった髪が空気を含んで、ふわりと揺れる。次いで鼻を掠める、甘いシャンプーの香り。
そして肉を刺し貫く鈍く重い音と鉄錆の混じった空気が、芳しい甘い匂いを上書きした。
紫の細い身体がぐらりと
彼女の胸から、黒々としたクロスボウの矢が生えている。
出来の悪い三流映画のようだが、血糊とするにはやけに生々しい赤色が、紫の胸元をじわじわと染め上げていく。
現在進行形で命と田彦の幻術に囚われている月夜と星羅の攻撃ではないことは確かだ。ならば、弾き出される答えなど一つしかない。
――桜井 明子。
明子は小刻みに震える手に、似合いもしない武骨なクロスボウを握り締めていた。
「――駄目。駄目よ。私は、私は許してもらわなきゃいけないの。
血走った目を見開き、明子は早口で言い募る。
『雪の女王』と称されたあの『門螺 彩美』が明子をどう責め立てたのかは知らないし、知りたくもないが……青は自分本位な明子の言い分を、許すことができなかった。
「――やれ。命、田彦」
『……良いのか?』
紫の容体を気遣いながら、田彦は躊躇いがちに問う。
それもそうだろう。人に実害を加えるような指示を、青や紫が出したことは今まで一度としてない。
現に命と田彦の幻術を受けた月夜と星羅は、その場に倒れ伏してはいるものの気絶しているだけで生死に別状はない。
「もうどうでも良い。……
この崩壊が白姫と黒姫の死によって、また『第34756世界』の彩美が『第0世界』を目指したことによって引き起こされているものならば……何をどう足掻こうと、逃れることは不可能だ。
ならば何を躊躇う必要があるのだろう。どうせ終わってしまう、この世界で。
『――
命は真っ先にそう口にすると、すらりとした指先で明子を指し示した。
次の瞬間、明子の身体から勢いよく炎が噴出した。だが、命の操る幻術に痛覚は伴わない。
明子は己が身体から生じる炎に怯え
レンズの厚い、野暮ったい黒縁眼鏡は鼻先までずり下がり、身嗜みからも気真面目さを感じさせる普段の明子とはかけ離れていた。
『……命、君が言うなら』
田彦が肩を竦め、姉である命に付き従う。
直後。明子の口が阿形に開くと、身の毛もよだつような絶叫が上がる。視覚を騙していた命の幻術に、痛覚を伴う田彦の術が加わったのだ。
五感が人間の脳や心身に与える影響は大きい。明子は典型的な、思い込みの激しいタイプなのだろう。それは彼女の先の言動からも明らかだ。
激しく揺らめく炎の中で躍り狂う明子を、青はただただ冷めた瞳で眺めていた。
青の頬を生温かい何かが伝う。
馴染みの薄いその感覚は――涙だ。
これは、何のために流す涙なのだろう。
腕に抱える妹の運命を、悟ってしまったことへの悲哀か。
あるいは親姉弟にも等しい存在の命と田彦に、人を害するよう指示してしまったことへの後悔か。
または、知り合いをこの手に掛けてしまったことへの自己憐憫か。
青は次から次へと零れ落ちて来る涙を拭うこともせず、ぐったりとする紫を胸に抱く。
そうして崩壊の進む世界をつくねんと見上げていると、青の顎先にそっと触れるものがあった。
「……馬鹿やなぁ、青。先生、殺してもうたん? どうせ、終わる世界やのに」
俯くと、夢と現の狭間にいるような、ぼんやりとした表情の紫と目が合った。
彼女の唇は力なく震え、血の気が失われている。それでも微笑みを絶やさない紫に、青は労るような手付きで彼女の乱れた前髪を整えてやった。日常の延長にも似たそれに、紫が口の端を緩める。
「――大丈夫。大丈夫や、青」
「あたしも共犯や。彩美が出会うだろう『第0世界』のあたし達に、『
母が子に言い聞かせるような口調で、紫は繰り返し繰り返し言った。
ゆっくりとゆっくりと。緩慢な動作で青の頬を上下する紫の手の平は、少しずつ体温を失っている。
何者にも邪魔されない、青と紫二人だけの世界。
彼等兄妹にとって『門螺 彩美』と、並行世界と関わる前は至って当然だったもの。
兄妹の直ぐ側では、明子が肉の焼ける臭いを撒き散らしながら炎の中を舞っている。
その様に、青は童話の『赤い靴』を思い出した。あの物語の結末は――主人公の少女は最後には足を切り取られ、靴だけが踊り去って行くのだったか。
明子を殺した罪を、この『第34756世界』に置き去りにする青達には似合いの最期なのかもしれない。
「――眠ったの、紫」
頬を撫でていた紫の手は、いつの間にか力なく下がっていた。
耳が痛くなるような静寂に、青は顔を上げる。そこにあるのは意識を失って倒れ伏す月夜と星羅の姿と、辛うじて人型を保ってはいるものの、炭化した身体からぶすぶすと煙を
「そうだな……俺も休むよ、紫。ちょっと、疲れた……」
青は目を閉じて項垂れた。紫の手を、決して離さまいと強く握り締める。
再度訪れる静寂。その中で青と紫が使役する狐神、命と田彦が音もなく兄妹の傍らに立つ。
それは親鳥が雛鳥を比護するようにも、番が寄り添う様にも似ていた。
『……今はただ眠ると良い。我等が愛しき、人の子等よ』
田彦が
『我等は
『お主等兄妹にとってどんなに辛く、悲しみに満ちた道行きだったとしても……今まで共に過ごした時間は、我等にとってかけがえのないものじゃった。お主等の覚悟も悲しみも。何も知らずに身勝手なことを言っているのは解っておる。それでも――それでも。お主等と……青と紫と、こうして出会えることができて良かった』
命は膝を突くと、微睡む青を愛おしげに見詰めた。
『さらばだ、我等が愛し子よ――また会おう。お主等の言う、第0世界で』
「『第0世界』の『門螺 彩美』……アンタが」
彩美と同じ顔をしたこの少女が――繰り返す並行世界の元凶。
彩美や紅達からすると『第0世界』であり、白姫や黒姫からすれば『第1世界』の『門螺 彩美』。
怒りが沸々と湧き上がる。眼前の『門螺 彩美』を張り倒してやりたいという衝動を無理矢理に抑え付け、彩美は眼光鋭く睨み付けた。
「――はっきり言うわ。私はアンタに成り代わるため、ここに来た」
「ええ、解っています。今の貴女は未だ時を刻む『
『門螺 彩美』は優しく微笑むと、芝居掛かった仕草で右手を真っ直ぐに伸ばした。
「……少し話をしましょう。『第34756世界』の『門螺 彩美』。私が生きた世界――貴女達の言う『第0世界』と、
「――私が犯した、罪について」
第9話 全ての色をぶちまけて 完
円環世界 ーあるいは君がいる世界ー 月白輪廻 @add_
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