奈落に沈む君を追って⑨
「まさか、了承を得られるとは……」
定期演奏会が行われる町営ホールの出入り口は、同世代の少年少女や吹奏楽部の生徒の保護者達、そして地域住人の姿で大いに賑わっていた。
私服姿、馴染みある
私服姿の
そのため
――柄にもなく緊張している。
気になっている相手と過ごせる高揚感と、
彩美を誘ってから二週間はあったと言うのに、定期演奏会の話題を
最初は彩美とクラスメイトであり、紅よりも彼女との付き合いが長い山吹を出し抜いたという優越感があったが、時間が経つ内に後ろめたさがむくむくと膨れ上がった。
「――
「あ、彩美さ……ん」
彩美は見慣れた制服姿だった。確かに私服と指定した訳ではないが……自分だけが張り切っていたようで恥ずかしい。
近寄って来た彩美が、紅をまじまじと見て申し訳なさそうに眉を下げた。
「……すみません。学校行事の延長線という認識だったのですが、私服にすべきでしたね」
「ううん、気にしないで……気を取り直して、行こうか。良い席が埋まっちゃうしね」
不思議な気分だ。
平行世界の出来事に於いて、紅を先導してくれるのはいつも彩美なのだが……今日の役回りは反対だ。
彩美は人波に四苦八苦しているようで、子供のようにおたおたしていた。見兼ねた紅は彼女の手を掴み、「こっち」と世話を焼く。
繋がれた手をキラキラとした瞳で見詰める彩美は、どこか幼子のような印象を受けた。
席は前方が殆んど埋まっており、紅と彩美は真ん中から二列程後ろの席に座った。
舞台からは少し離れているが、音楽を聞くだけならばそこまで問題あるまい。何せ紅も彩美も、そういった芸術関係には素人だ。違いなんて解るはずもない。
何を話すでもなく、二人黙って開演を待つ。
沈黙は気にならず、むしろ流れる時間が心地良かった。
「あ……」
ホール内の照明が消え、一瞬にして暗闇が訪れる。
紅と彩美、どちらのものとも知れない吐息が洩れた。
緞帳が上がると、舞台だけが目映く照らし出される。照明に反射して煌めく、チューバの輝きが眩しい。
指揮者――吹奏楽部の顧問が目立つ白の指揮棒を振ると、軽快なリズムで一曲目がスタートする。『ラデッキー行進曲』。これは学校でも何度も耳にした曲だ。
場の空気に呑まれている間に、二曲目、三曲目とどんどんプログラムが進んでいく。
日頃の練習の成果が見える美しい旋律に浸っていた紅だが、さすがにこの時位は表情を崩しているのだろうかと悪戯心が働き、彩美の顔を横目で見る。
彩美は眉を寄せ、今にも泣きそうに、どこか羨望の籠った熱い眼差しで舞台を観ていた。
それは音楽にというよりも『舞台そのもの』へ……そこに立っている吹奏楽部の部員達へと向けられているように思える。
紅は慌てて視線を外した。
鼓動が煩い。ひた隠しにされていたものをふいに暴いてしまったような、そんな気分だ。
最近流行りの曲が流れ、会場がわっと盛り上がる。余りテレビを観ない紅ですら、聞き覚えがあった。
しかし紅の意識は先程の彩美の表情に奪われ、吹奏楽部の演奏は最早BGMへと変わる。
――彼女はその頼りなげな細い身体に、一体何を抱えているのだろう。
彼女を知りたい。
感情の解りづらい、人形染みた態度の意味も。
どうして羨望の眼差しで舞台を見ていたのかも。
『
その全てを暴きたい。
――たとえそこに、何が待っていようとも。
そうして、気付けば定期演奏会は終わっていた。
「……今日は誘ってくれてありがとう、喜多見城君」
入り口が込み合うことを見越して、紅と彩美は一先ず休憩所に避難していた。今日は土曜日であるため、そう急いで帰る程のものでもない。
だからか、紅と彩美の間に流れる時間は穏やかなものだ。
椅子に腰掛ける二人の手には、ホットミルクティーのペットボトルが握られている。ちなみにこれは紅の奢りだ。
「ううん、僕の方こそ。今日はありがとう、彩美さん」
「実はギリギリまで、行くか行かないか悩んでいたのですが……久し振りに舞台を観ることができて良かった。眩しかったです――とても」
「……何か、いい思い出があるの?」
「そう、ですね。今はもう遠い過去の――夢のようなお話です。それでも私にとっては、とても大切で愛おしい時間でした」
「……」
「この定期演奏会が終わったということは、次にやってくるのは文化祭。これを無事に乗り越えることができれば……あるいは」
彩美は時折、ここではないどこか遠くを見詰めることがある。
場合に依っては紅を通して別の誰かを見ていることもあり、その視線に含まれる慈愛のような念が憎たらしく思えることもある。
「文化祭を終えた後は、どうなるの?」
「……正直に言って、未知数です。私の目的が達された後、この世界が、私が、貴方がどうなるのかも。私は、文化祭以降の出来事を何一つとして知りませんから……この定期演奏会のことだって」
また遠くに視線を投げる彩美に焦燥感を覚えた紅は、無意識に口を開いていた。
「――なら、次は夏祭りに行こう。来年の灯篭流しに」
きょとんと目を丸くする彩美に、紅は照れ臭さも相俟って言い募る。
「何か約束があった方が頑張れるさ。――僕も頑張る。君を、君達を守れるように。来年、君と夏祭りに行けるようにね」
「まるで……」
彩美は感じ入るように目を細めると、何事か言いかけたのを途中で飲み下した。
その後に何と続くのか、紅は予想も付かなかったが……そう悪いものではないだろうと、無条件に確信していた。
彩美はホットミルクティーのペットボトルを一度強く握り直すと、唇を綻ばせた。約束が果たされることを信じて疑わない、無垢な子供のように。
「――では約束です、喜多見城君。必ず、一緒に灯篭流しに行きましょうね」
「――うん。約束だ、彩美さん」
差し出された細い小指に、紅は自身の指を絡ませた。
まるでお伽噺のような、どこまでも安寧に満ちた優しい時間。
そうして笑い合う二人の姿を、紅に声を掛けに来た
そして、そんな星羅を観察する一対の目があった。
そう――窓硝子の向こう側。黒い上衣に白い袴の、まるで巫女のような格好をした少女が、硝子越しにねっとりとした視線を星羅へ向けていた。
終わりの足音が近付いていることなど、誰も気付けなかった。
――まだ、この時には。
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