幕間 交わるは、赤②
白い草履が、水面のような床に波紋を作る。
跳ねるような足取りの彼女を迎え入れたのは、見渡す限りの鏡、鏡、鏡。そして、黒いセーラー服の少女が一人。
「――本当、悪趣味な世界よね。鏡だらけ。まるで『鏡地獄』の主人公にでもなった気分だわ」
少女が芝居掛かった仕草で、大袈裟に肩を竦めた。
高飛車な口振りは相変わらずで、
この愛おしいまでの愚かさを、矢張黒姫は嫌いではない。
少女の存在が白姫の手から離れた今、黒姫はようやく彼女を、彼女達を慈しむことができる。
黒姫は『
だが彼女の在り方が、『第34756世界』の彼等の存在を許すことが出来ない。
彼等を肯定することは、
それだけはできない。してはならないのだ。
終わってしまった時を今尚鏡の中で繰り返す、
だから黒姫は――細い腕を振り上げて、眼前の鏡に拳を叩き付けた。
甲高い音を立てて砕けた鏡の破片が、黒姫の拳に数多の傷を付ける。
処女雪のような肌を寒椿にも似た緋色がゆっくりと伝い、指先から滴り落ちたそれが足元の鏡面を小さく波立たせる。
これは『第1834世界』。
『喜多見城 紅』の父、
ここは
振り向き様、今度は別の鏡に拳を振りかぶった。
『第359世界』。この世界では彼等が一堂に会する前に、交通事故によって『吾妻屋 山吹』の存在が欠け、黒姫が送り出す並行世界の者達に対抗する手段を失った。結果は――これ以上は語るまい。
ぼたぼたと垂れ流れる血潮を気にも留めず、黒姫は拳を振るう手を止めない。
次に黒姫が破壊したのは、シンプルな黒の木枠の鏡だ。
鏡面がバラバラと崩れ落ち、木枠だけが未練がましくそこに残る。まるで遺影額のようだ。
今のは『第12307世界』。『門螺 彩美』どころか『難原 紫』の存在すら始めからなく、お話にすらならなかった世界。
『第17627世界』。この世界では『喜多見城 紅』が『門螺 彩美』を陰ながら守り並行世界との戦いの中で命を落とすが、結局最後まで『門螺 彩美』が『喜多見城 紅』の存在を認識することはなかった。
『あの方』の心情を思えば、これ程罪深いことはあるまい。
『第5506世界』
『第42世界』
『第8329世界』
『第23771世界』
『第693世界』
割れる鏡の断末魔が、暗闇に覆われた黒姫の世界に響き渡る。
これは彼女の叫びでもあった。
背後の少女が、そんな黒姫の様子を愉しそうに観察している気配を感じる。
そして――黒姫は叩き付けようとしていた拳を寸前で止めた。
――この世界を破壊することは、彼女には出来なかった。
少しばかり冷静になった黒姫は、ようやくその手を下ろした。
透き通った床に、水っぽい音を立てて血が垂れ流れる。
己が鼓動と重なるその旋律だけが、黒姫の耳を侵す。
「――何、壊さないの?」
少女が不思議そうに問い掛けるのに、黒姫は黙り込む。
どうせ、この少女は覚えていやしないのだ。説明した所で意味はあるまい。
答えない黒姫に、少女が機嫌良くクスクスと嗤った。
「――アンタに、またこの言葉を贈ってあげるわ。『人の思いは所詮、記憶の奴隷』。大きな口を叩いておきながら、アンタも結局の所『人』なのよ。黒姫」
「――黙れ、魔女め」
黒姫は冠する名前の通りに闇夜を凝縮させたような黒髪を
三日月の如く細く歪んだ瞳と目が合う。
鏡に覆われた闇の世界に佇む少女の、その笑みは魔女
「この鏡だけを残し――後は破壊しろ。貴様の『友人』の手を借りても構わん」
「……へぇ? 良いの?」
少女が片眉を跳ね上げるのを、黒姫は真正面から言った。
「ああ。もう、私には不要のものだ。そして――白姫との、決着を」
黒姫の言い分を理解した少女が、唇の端を持ち上げた。
彼女はその華奢な手に音もなく大鎌を出現させると、大きく振るう。
風を切る音がしたかと思うと、次いで連続的に鏡の叫声が上がる。
少女が楽しげに、愉しげに、黒のプリーツスカートを揺らしながらくるくると回った。
まるでダンスでも踊っているかのようだが、パートナーが大鎌とは、随分とまあ物騒だ。
次々に崩れ去っていく『彼等』との大事な思い出だけを胸に抱えながら、黒姫はただ前だけを見据える。
「――私は腹を括ったぞ。白姫、後は貴様だけだ」
「――――――っ!!」
割れる鏡の絶叫に、白姫は飛び起きた。
胸が騒ぐ。今にもこの薄い胸を飛び出してしまいそうな心臓の音に、白姫は押さえるように胸元に手を置いた。
「――鏡が、並行世界が……何てことを、黒姫」
白姫は呆然と呟くと、ゆるゆると両手を持ち上げ、顔を覆った。
足を引き寄せ、身体を小さく丸める。胎児のようなそれは、彼女を更に弱々しく見せた。
「どうしたら、私はどうすれば良いのですか。どうか、どうか救って下さい私を、私達を……!」
永遠に感じられる程に、その悲鳴は白姫の心を苛んだ。
それと同時に甦る、どこかの世界、いつかの黒姫の言葉。
――『傍観者でしかない貴様に、何が解るというんだ白姫。立ち上がる気概もない、軟弱者め。繰り返した先に、『あの方』が望む未来が本当にあると思うのか?』
――『貴様は何も見えていない。私のことも。彼等のことも』
「――……ああ」
霧が晴れるかのようだった。
これが……この暴虐を尽くした黒姫の行動こそが、彼女の決意か。
何故だったのだろう。
何故、白姫が彼等を未来へと導く役目を持って創造されてしまったのだろう。
『門螺 彩美』――『彼等』の心に寄り添える黒姫の方が、余程向いていただろうに。
何故私が白姫で、彼女は黒姫なのだろう。
二人の立場が逆ならば良かった。
そうすれば白姫は一人、心乱されることなく静謐な世界で過ごすことが……喉奥で引き吊ったような音が洩れ、白姫の頬を珠の如き涙が伝う。
どう足掻いても、白姫が『門螺 彩美』達を大切に想ってしまうことは変わらない。
白姫も――黒姫もそういうものとして創られた。戯曲の登場人物のように。
いや。これは――『あの方』にとっての、戯曲なのだ。
白姫にとっての『始まりの世界』、白姫と黒姫の双方に命を吹き込み……二人に役目を与えた『あの方』の。
触れれば崩れる砂上の楼閣、
まるで戯曲――そう、演劇なのだ。
厳しい現実から離れ、観る者にほんの少しだけ美しい夢を見せてくれる。
彼女が創った台本のように。
ならば救いの手と……『デウス・エクス・マキナ』となるのは――『門螺 彩美』しかいないのだろう。
白姫は無意識に呟いていた。
彼女の言う『あの方』にも似た口調で。
「未来は『未知なるが故におそろしい』――だからこそ『人生は選択の連続である』……そうですよね、『彩美さん』」
白姫は鏡が割れる音を追い風に、ゆっくりゆっくりと立ち上がった。
彼女の脳裏に、今まで三万回以上もの時を共に過ごしてきた紅達の顔が思い浮かぶ。
本当の妹のように接してくれた紅。
『ひめちん』という愛称を付けてくれた山吹。
穏やかに話をしてくれた青。紫の眩しい笑顔。
「『人の思いは所詮、記憶の奴隷』――それでも。それでも、私は」
涙の膜が薄く張った白姫の澄んだ赤の瞳、そこには強い光が宿っていた。
舞台の幕を下ろす、強い決意に満ちた――光が。
幕間 交わるは、赤 完
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