幕間 交わるは、赤

幕間 交わるは、赤①

(どうしてここにいるの……!?)


 嘆く彩美あやみのほんの数メートル先に、二ヶ月遅れで編入してきたクラスメイト、喜多見城きたみしろ くれないの姿があった。



(アイツはバス通学だったはずよ。何で駅方向に歩いている訳!?)



 この発言からお察し頂けるように、彩美の自宅は深冬駅方向にある。

 バス停は学校から坂を降りてしばらくした所にあるので、ここまで来る必要は紅にはないはずだ。

 何故なら、既にバス停は通り過ぎているのだから。



 彩美は即座に面倒事の臭いを嗅ぎ付け、気配を消した。

「自分は空気、自分は空気」と言い聞かせるように足音を忍ばしていると、逆に妙な気配を飛ばしてしまったのか、紅がふと後ろを振り返った。


 ――彩美と紅の目が、ばっちりと合う。



「――門螺かどにし、いたのか」



「……ええ」



 紅が普通に声を掛けてくるものだから、何だか酷く馬鹿馬鹿しい気持ちになり、彼の斜め後ろに半歩開けて立った。



「何でいるの。バスは?」



河本かわもと精肉店に用がある。赤音あかねに、メンチカツを買って来るよう頼まれた」



 紅が学ランのポケットから引き摺り出したのは、どこか懐かしさを感じさせる緋色のがま口財布だった。まるで子供のお遣いだ。



「……そう」



 脱力感に襲われ、彩美はそれだけ言うと歩き出した。

 彩美が動くと同時に紅も足を踏み出したため、図らずも一緒に帰っているような様相になってしまう。

 ついて来ないでと言いたくとも、河本精肉店も彩美の家の方向も同じだ。



「……自転車通学じゃないんだな」



 気を遣ったのか、紅が話題を振った。

 ここで意地を張ってもどうしようもないため、彩美は溜め息を吐くと大人しく質問に答えた。



「あれは学校から三キロ以上っていう規定があるから、ちょっと距離が足りてないのよ」



「……ああ、あったなそんなのも」



「そもそも坂道が多いこの町で、自転車なんて乗り回したくないわ」



「それは同感だ」



 紅が神妙に頷く。するとようやく見えてきた河本精肉店の看板に、彩美は一も二もなく安堵した。やっと、この微妙な空気から解放される。

 砂埃で薄汚れた黄色いビニール素材の暖簾が、重たげに揺れる。

 いつもならば女将と世間話に興じているマダム達は珍しくいないらしく、決して広くはない店内は閑散としていた。

「じゃ。目的地にも着いたようだし、私はここで」と言おうとした彩美の先手を打って、紅が有無も言わさぬ口調で「少し待っててくれ」と言い残し、店の中へと入って行った。


 そう言われてしまえば勝手に帰ることもはばかられ、彩美は仕方なく手持ち無沙汰に携帯電話を弄った。

 特に何をする訳でもなく、適当なネットニュースを流し見ているだけだ。

 彩美は流行を追うのが好きではない。

 興味もないし、別に知らない所で問題はない。何せ世間話をするような友人も、そう多くはない。

 ……いや、見栄を張った。悠陽ゆうひ位しかいない。


 そうして、ぼんやり携帯電話の画面を眺めていること数分。軽い音を立てながら店の戸が開き、紅が店内から出て来た。

 彼の手に握り締められた白いナイロン袋から、揚げ物特有の油っぽくも食欲をそそる匂いが漂っている。


 少し腹が空いてきた。


 鳴きそうになる腹の虫に、彩美はさっと腹に手を翳す。

 余り意味のあるものとは思えないが、そこは女子としてのエチケットだろう。



「お前に」



 眼前に、包装紙に包まれたメンチカツが差し出された。

 先程よりも、揚げたての肉の香りが濃厚になる。



「前回、山吹達に奢らなかったからな。あいつ等には秘密だぞ」



「ああ。あれはカツカレーでチャラでしょ。作ったのはアンタじゃないけどね。……貰っておくわ」



 受け取った紙包み越しに、ほんのりとした温かさを感じた。

 熱々のそれに息を吹き掛けきつね色の衣にかぶり付くと、サクサクとした衣が口内で弾ける。



「美味しい」



 感じ入った彩美の言葉に、紅が無言で頷いた。

 食べ歩きはしない主義なのか、店先の邪魔にならない場所に陣取ってメンチカツを頬張る彼に倣う。

 紅が時折見せる育ちの良さが少しばかり腹立たしくもあり、好感が持てた。



「こんな時間に間食して大丈夫なの? 夕飯が入らなくて、親戚の子に怒られるんじゃない?」



「いや。むしろ『自分から食べて下さるなんて!』と感激されるな」



「……甘やかされ過ぎじゃない、アンタ?」



 溢れる甘い肉汁に舌鼓を打つ。

 美味しいものは人の心を解し、口を滑らかにさせる。彩美もその例に洩れなかった。

 今までで一番穏やかな時間が、二人の間に流れる。



「揚げ物といえば……エビフライにはソースを掛ける派か、タルタルソースを掛ける派かで難原兄妹と山吹が揉めていたことがあったんだが……俺は何も掛けない派だ。下らないことに巻き込まれそうで言いはしなかったが」



「ここで話すのも十分下らないわよ。解ってるの? ……ちなみに私はタルタルソース派よ」



「遂に決着か。明日、アイツ等にも言ってやってくれ」



「嫌よ、面倒臭い」



 紅は薄く微笑むと、実に旨そうにメンチカツを頬張った。



(――何だ……そんな風にも笑えるんじゃない)



 年相応の、柔らかい笑み。

 いつもの嘘臭いものや、皮肉めいたものでもなく……心から浮かべただろうことが解る笑み。


 彩美の胸の内で、何かがむくりと鎌首をもたげる。

 きゅうっと締め付けられるような苦しさに、無意識に胸元を掻き抱いた。


 ――静まれ、鎮まれ。


 これは『喜多見城 紅』に、『門螺かどにし 彩美あやみ』が抱いてはいけない類いのものだ。


「ハツカネズミがやってきた。はなしは、おしまい」や「めでたし、めでたし」という結末では、決して終われないだろうそれ。

 そもそも「クリック? クラック!」からして口にしていないのだ。物語の最後にハツカネズミを登場させて綺麗に締めるのは、端から無理な話だった。



「矢張、ここのメンチカツは美味しいな。スーパーで売っているものよりも、断然旨い」



「……そうね」



 花開く前に、蕾は蕾のままで朽ちればいい。

 彩美は自身の心に確かに芽生えただろう、淡く色付く蕾を――己の手でぎ取った。

 『門螺 彩美』には不要なものだ。そうでなくてはならない。


 紅と面識があるだろう、どこかの世界の『門螺 彩美』も、彼のことが好きだったのだろうか。


 同じ『門螺 彩美』ならば、その可能性は少なからずあるはずだ。

 ならば紅に恋愛感情を抱いた多数の彼女達も、随分と頭を悩ませたことに違いない。


 こんなにも心を乱される感情を、同世代の多くの少女達は抱えているのか、と。


 それを一片でも感じてしまった彩美は、酷く狼狽した。


『恋ってのは、それはもう、ため息と涙でできたものですよ』――とある戯曲の台詞が浮かぶ。


 いつかの彩美も、そう思ったのだろうか。



「私もこの店のが―― 一番好き」



 珍しく直接的な彩美の言葉に、紅は目を丸くすると笑みを深めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る