第7話 落ちる、色②


「――彩美あやみ、ちょっと良いか? 先生にノートを運ぶよう頼まれちゃってさ、手を貸して欲しいんだけど……」



 帰り際の彩美を引き留めたのは、心底申し訳なさそうにする悠陽ゆうひだ。

 悠陽とて、早く部活行きたいだろうに。たかが帰宅部の彩美に、これ程頭を下げる彼女を見ていたらどうにも捨て置けなくなった。


 そもそも悠陽は小煩い小型犬のような雰囲気があるので、しおらしい態度を取られると断り難いのだ。本人としては無意識なのだろうが、直接的な被害を受ける彩美としては堪ったものではない。

 彩美は仕方なしに肩に掛けていたスクールバッグを己の机の上に下ろし、悠陽の後に続く。



「……アンタ、日直じゃないじゃない。何でノート運びなんて頼まれる訳?」



「偶々、明子あきこ先生の目に留まったらしくてさ。ちょっと迷惑だよなぁ」



「それはアンタの間が悪いだけでしょ」



「くっ、悔しいけど否定できない……!」



 歯軋りする悠陽を鼻で笑いつつ、跳ねるような足取りの彼女を追う。



「そういやさ。お昼の時の彩美、喜多見城きたみしろ達と仲が良さそうで……アタシ、何だか安心したよ」



「アンタ、一回眼科に行って来たらどう? 私にはアンタの方が仲良さそうに見えたけど」



「そんなことないよ。……でも、今日は楽しかったな」



 可憐な少女らしく、悠陽がプリーツスカートひるがえしながら彩美を顧みた。

 普段の彼女よりも、どこか影のある表情をしている。



「――アタシもさ、彩美。こんな風に、お前と過ごしたかったよ」




 瞬間――世界がひっくり返った。



 暗い暗い、一面鏡の世界。



 そこにいるのは黒姫くろひめ、そして――。




「私……?」




 黒姫の傍らに、彩美そっくりの少女がひっそりと佇んでいた。


 顔は彩美と瓜二つだが、持てる雰囲気が全く異なる。表情の一つ、立ち姿の一つ変わるだけで、ここまで別人に見えるのだ。

 目の前の『門螺かどにし 彩美あやみ』が、間の抜けた台詞にくつりと笑う。




「そうよ。『第34756世界』のアタシ。初めまして。アタシは『第34755世界』の『門螺 彩美』」


「ここは、黒姫の統治する並行世界の一つ『第34755』世界。、アタシ達の世界よ。黒姫の力で、限定的に世界をひっくり返したの。心配しなくても、アンタがいる『第34756世界』も『柳田やなぎだ 悠陽ゆうひ』も無事よ。彼女はとっても安全な場所にいるから、安心して頂戴」




 悠陽――そうだ。今目の前にいる悠陽は、彩美の知っている『柳田 悠陽』ではない。



 別世界の悠陽とは言え、『柳田 悠陽』という存在に裏切られたことは、彩美に想像以上のダメージを与えていた。

 目を見開く彩美に、眼前の悠陽はすまなそうに眉を下げる。



「……ごめんな。お前も彩美だけど、アタシの友達の『彩美』はコイツしかいないんだ」



「――それにしても、こんなに上手くいくとはね。アンタのことだから、絶対バレると思ったけど」



「……いや。あの感じだと多分、吾妻屋あづまやにはバレてるよ。だから、さっさと用事を済ませた方が良い」



 彩美には理解の及ばない話が、淡々と進んでいく。

 『山吹やまぶきにはバレている』とは、一体どういうことだろうか。

『門螺 彩美』は山吹の名前に眉を顰めると、舌打ちを溢した。



「本当、敵に回すと厄介な男ね。まあ良いわ。『第34756世界』の『門螺 彩美』を殺せばいいだけだもの」



『門螺 彩美』が言うが早いか、悠陽の手に片手剣が姿を現した。

 アニメや漫画で見るような、大剣だ。あんなもので刺し貫かれれば、ひとたまりもないだろう。

 彩美は咄嗟に逃げを打つが、凶器を前にして震える足はもつれ、数メートルも進まない内に転倒した。

 大剣を肩に担いだ悠陽が、床に転がる彩美へと無情にも距離を詰める。



「――本当にごめんな」



 大剣が振りかぶられる。

 彩美はずりずりと後退るが、そんな抵抗は一切無駄だろう。この大剣ならば、彩美を一発で袈裟斬りにできるはずだ。


 大剣が振り下ろされ、それと共に重々しく空気を切る音が耳を打つ。


 痛みを予期して、彩美は目を瞑る。



 響いたのは肉を切り裂き、骨を断つ音などではなく――電気が走ったかのようなそれ。



 悠陽の剣先が、透明な防壁のようなものに防がれている。


 彩美の目の前には、人形ひとがたの符のようなものが浮いていた。防壁は、その符を中心として生じているようだ。

 それは彩美を守るように、悠陽の前に立ちはだかっている。


 悠陽は剣を握る手に力を込めるが、剣先は一筋として動かない。彼女は悔しそうに、奥歯を噛み締めた。




「――また、アタシの邪魔をするのね」




『門螺 彩美』が憎々しげに、しかしどこか寂しげな声音で毒吐く。

 彼女の台詞を皮切りに、暗闇を反射する鏡の世界が突如として白く染まった。



 控え目な足音と共に、白姫しろひめが現れる。

 その傍らにはくれないと、更にその後ろに難原なんばら兄妹、山吹が続く。


 黒姫と白姫が向かい合う。


 まるで鏡合わせのようだが、反転する二人の色合いは、彼女達がれっきとした別人であることを物語っていた。


 紅達の顔を見たことで、彩美は不本意ながらも安堵する自分の存在に気が付いた。立ち上がり、柄にもなく彼等の下に駆け寄った。

 しかし対する紅の顔は酷薄な色を映したまま、自身の隣に佇む山吹に一言告げる。



「――



「……了解」



 次の瞬間、彩美は床に倒れ込んでいた。

 手足の自由が利かない。焦りと動揺の中で窺い見た視線の先で、重しの付いた枷が手足を拘束している。


 恐らく、今の彩美の瞳は絶望に彩られていたことだろう。


 彩美達のやり取りを愉快そうに眺めていた『門螺 彩美』が、高笑いした。

 可笑しくて仕方がないと言ったそれが、黒と白、両極端に染まる世界に響き渡る。



「――可哀想なことをするのね、紅。そのアタシは何も知らないわ」



「……お前の言葉を信じるのは、確証が得られたその時だ」



「あら、心外ね。アタシは正真正銘潔白よ?」



「どの口が……!」



 あおが呻くように絞り出した悪態を、『門螺 彩美』が嘲る。

 弱々しいながらも、何故か場を制する力を持った白姫の声が、彼等の緊迫したやり取りを遮った。



「彩美さんを狭間に引き込むとは。無茶をしましたね、黒姫」



「無茶は承知だ。だが別に構わん。私は腹を括った。壊すんだ――私は、私の全てをな」


「いずれにせよ私の世界でならば、停滞した時の中で共に過ごせるさ。最後に待つのが、たとえ死だろうと。どうせ繰り返すならば、問題はあるまい?」



「……本気、なのですね」



「ああ。雌雄を決しようじゃないか――お姉様。私が望むのは、ただ一つだけ」



 交互に会話する彼女達のやり取りは、まるで鏡に映る己に話し掛けているかのようだ。




「――宣言しよう。この『第34756世界』で、私はこの繰り返しを終わらせる。終わりだ、白姫。貴様との繋がりも、無為な時を過ごすのも」



「……ならば、私も宣言しましょう。黒姫、愚かな私の妹。たとえ私が守るこの『第34756世界』が貴女の手によって破壊されたとしても、たとえ私という存在が『死』というものを迎えたとしても――その時は貴女も一緒です、黒姫。勝つのは私達です。貴女は私であり、私は貴女なのですから」




 黒姫が、苦虫を噛み潰したような顔で白姫を睨む。

 対する白姫は、おどおどとしたいつもの雰囲気をどこかに置いて来たように、真っ直ぐに黒姫を見詰めていた。



「――は。仕掛けておいて言い負かされてるんじゃ、世話ないわね」



「黙れ『門螺 彩美』。私は今機嫌が悪い。『第34756世界』のお前を殺せなかった分際で、大きな口を叩くな」



「それは悠陽に言ってくれる? しくじったのは彼女よ。でもまあ、相手が悪かったわね。――ねえ山吹。一体どこで、この『柳田 悠陽』が本来の彼女ではないことに気付いたの?」



『門螺 彩美』に矛先を向けられた山吹は、一つ鼻を鳴らした。



「……馬鹿にするなよ『門螺 彩美』。柳田さんと最後に戦ったのは、俺だ。だから二人に一芝居頼んで、身代わりの符をみ~ちゃんに忍ばせて貰った」



 山吹の視線が紅とむらさきに向けられる。

 その動きで、彩美は昼休みの時の背中の痛みを思い出した。



「ふふ。もう、アタシを『み~ちゃん』とは呼んでくれないのね」



 悪意の籠った笑い声を洩らす『門螺 彩美』に、山吹はどこまでも冷静だった。



「俺達の信頼を裏切ったお前は、もう終わった世界の存在だ。今の『み~ちゃん』は、彼女だけだよ」



 山吹は、無様に転がる彩美を指し示す。

 それが癪に触ったらしい『門螺 彩美』が、一瞬鬼のような形相を浮かべた。



「――アンタ達の、そういう所が大嫌いよ。何でも割り切って考えられてしまう、そういう所が」



『門螺 彩美』が、視線を下げて彩美を見た。

 本当に、別人のようだ。彼女は、彩美にはない何かを持っている。

 強い輝きのような、何か。誘蛾灯に引き寄せられる蛾のように近付きたいと思ってしまう、どこか妖しい光。

 それは一般的にカリスマ性と表現されるようなものではあったが、彩美には上手い言葉で表現できなかった。

 そんな『門螺 彩美』が言う。




「――どう、アンタもこちらに来る?『第34756世界』のアタシ」




 音もなく差し伸べられた手。

 彩美と寸分違わない顔に貼り付けられた、完璧な笑顔。

 同じ『門螺 彩美』だからこそ解る、演技だろうそれ。

 確かに眼前の『門螺 彩美』は魅力的だ。引力にも似た何かを持っているのは、明らかなのだろう。


 だからこそ――彩美にその手を取る気は、皆無だった。



「こんな格好で悪いけど……遠慮するわ。私、まだこいつらに言わなきゃいけないことがあるから。それにアンタの手を取ったら最後、私を殺すつもりでしょう? 舐めないでよね。私だって……いえ。私が、私こそが――『門螺 彩美』よ」



「……本当に――殺してやりたい」



『門螺 彩美』の纏う空気が、鋭く冷たいものに塗り変わる。

 彼女の手に現れた大鎌に青と紫、山吹が身構えた。


 それを制したのは――黒姫だ。



「――止めろ、見苦しい。柳田 悠陽が『第34756世界』の『門螺 彩美』を殺し損ねた時点で、白姫が姿を見せた時点で、この策は失敗だ。それに急かなくても、逃げ道は塞いでいる」



 意味深な黒姫の言葉に、白姫が眉をピクリと跳ね上げた。



「矢張、貴女は……」



「貴様は私でもあるのだろう? ならば私の考えていることなど、お見通しだよなぁ?」



 先の白姫の言葉を引用し厭らしくせせら笑う黒姫が、一歩後ろに後退した。

 黒姫と白姫、拮抗していた白と黒。黒姫の撤退と共に、周囲を塗り潰していた黒色が、収束するようにその場から離れて行く。

 去って行く黒姫の後を追い、『門螺 彩美』と『柳田 悠陽』が背を向けた。



「――気持ちは変わらないんだな『柳田 悠陽』。そこに、先はないぞ」



 紅の言葉に悠陽が足を止め、微かに振り向いた。



「……覚えててくれたんだ。やっぱり優しいんだな、喜多見城――『第34755世界あの世界』で、もっと早くお前と話していたら良かったよ」



「――アタシの『友人』を、唆すのは止めてくれる? 紅?」



 皮肉気な響きのそれは、あの悠陽のことを『友人』などとは一切思っていないだろうことが窺える。彩美でなくとも解るだろう、それだけあからさまな態度だった。



「――どの世界でも『柳田 悠陽』は『門螺 彩美』にとって、必要不可欠な存在だった。それが伝わっていない、解らない時点で……お前は欠けてしまっていたのかもしれないな」



 憐れむ口調の紅に『門螺 彩美』は答えることなく、今度こそ背を向けた。

 小さくなっていく闇の中に、黒姫達の姿が飲み込まれていく。


 彼女達が去ると、そこはいつも白姫がいる一面鏡の世界に変わっていた。

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