第7話 落ちる、色③
あっという間の出来事に、
その時、目の前に真っ白な中履きが現れる。
彩美はのろのろと顔を上げた。
「『監視』というのは名目で、俺達はお前とあの『
「はいよ」
独り言のように「やべ、鎖絡まってる……取れっかな」と呟いた山吹は、絡む鎖を
「――――――」
「……え?」
囁かれた内容に、彩美は思わず山吹を見上げる。
目が合った彼は僅かに口の端を持ち上げ、はぐらかすかのように小首を傾げると、紅や
「あ~、取れた取れた。悪いな、み~ちゃん」
――大根役者にも程がある。
山吹は棒読みも棒読みな大声で、白々しく言った。
当然だ。彩美を拘束する枷に付いているのは、絡まる程長さがある鎖でも細い鎖でもない。
助け起こそうと山吹が手を差し伸べるのを払い除け、彩美は自力で立ち上がる。
視界の隅で山吹が苦笑したが、構わなかった。
何もかもが腹立たしい。
あの『門螺 彩美』と接触するために、餌にされた自分も。
彼等を信用しようとしていた自分も。
紅に
その何もかもが、許せなかった。
「――
彩美は白姫の言いたいことなど、何一つ理解できなかった。する気もない。
「そんなこと、どうだって良いわ。……よくも、よくも私を騙してくれたわね。さぞや滑稽だったでしょう?」
「――そう思いたきゃ、思えば良いんとちゃう?『門螺 彩美』。アンタは、私等の話なんてきちんと聞いた試しもなかったやんか。今までも、これからも。……どうせ何もかも、馬鹿にしとったんやろ」
熱が入りつつも、
――彼の言う通りなのかもしれない。
彩美はそれ以上の言葉を失う。
俯いた彩美は、囁きにも似た声量で尋ねた。
「……私は、私は何なの。私って何? アンタ達にとって、私って何なの?」
彩美のぽつりとした響きの余韻を残して、白姫の世界は収束していく。
彩美の瞳に、最後まで白姫の赤い袴が鮮烈に印象に残っていた。
――気付けば、彩美達は一年二組の教室にいた。
「……元よりお前は、俺達側の人間だった。黒姫並びに並行世界の現象は『門螺 彩美』という存在を軸として、この
「お前は、俺達の言う始まりの『第1世界』では、並行世界に関する記憶を持っていた。俺達は黒姫と白姫の存在について、その世界の『門螺 彩美』から教えられた。……以降は、以前話した通りだ」
「――あの私は何なの」
「『第34755世界』。今俺達がいる世界の、一つ前の世界の『門螺 彩美』――俺達を裏切り、黒姫に
「私に近付いたのは、そのため……?」
「……そうだ」
彩美の胸に、重苦しい痛みが走る。
数日彼等と同じ時間を過ごし、随分と絆されてしまっていたことに気付いた。
知りたくなどなかった。
彼等と共に過ごす時が、これ程に楽しいということなど。
悟りたくはなかった。
失われたピースをようやく見付けたような、そんな充足感を覚えたことなど。
「私は――」
何を言おうとしたのか。胸の内から沸き上がる感情が口を突く。
紅が死刑を宣告される罪人にも似た真剣さを帯びた表情で、彩美の言葉を待っていた。
すると突然、教室の引き戸がガラリと開けられる。
「――あれ、お前等。こんな時間に何してんだ?」
『第34756世界』の、
唖然とする彩美達の中で、真っ先に我に返ったのは――青だった。
「……柳田はんも珍しいやん、こんな時間に教室に来るの。何かあったん?」
今まで『第34755世界』の『柳田 悠陽』が彼女に成り代わっていたのを知っている彩美としては、青の問い掛けはかなり白々しく感じたのだが……当然、悠陽は一切気付くことなく「あ~……」とばつが悪そうに呟いた。
「何か、朝練するのに早く来たのは覚えてるんだけどさ。それ以降の記憶がなくて、気付いたら使われてない体育館倉庫で寝てたんだよね。しかも今まで。丸一日授業をサボったのは不味いよな……お母さんに連絡とか行ってないと良いけど」
その辺りは『第34755世界』の『柳田 悠陽』が出席していたので心配はないが……クラスメイトと話が噛み合わなければ、さすがの悠陽も不審に思うかもしれない。
「面倒だな……
「ん、了解」
紅の呼び掛けに反応した紫が、悠陽の前に素早く陣取った。
紫は驚く悠陽を尻目に、彼女の眼前に手を
「――『
『廻絆』――
紫の持つ力、並行世界に関わる記憶の消去が、彩美の目の前でいとも容易く行われた。
記憶を操作された悠陽は、ぼんやりとした視線をどこか遠くに向けていた。
しばしすると目に光が戻り、彼女は不思議そうな顔をする。
「――あれ……アタシ何してたんだっけ?」
「柳田、荷物を取りに来たって言ってたやん。忘れたん?」
紫がすかさず嘘八百を並べ立てた。
悠陽は「うーん。そう……だっけ?」と首を傾げつつも、自身の席からリュックサックを取り上げた。
「お前等、帰らないのか? ……というか部活に入ってないのに、こんな時間まで何してんだ?」
悠陽の中では、今日の部活動は終わったことになっているらしい。
実際には、まだ部活の終了時刻ではない。紫の力で認識を歪ませたのだろう。使い様によっては恐ろしい能力だ。
「話し込んでたら遅くなったんだ。そろそろ帰ろうぜ」
悠陽の話題転換にこれ幸いと乗った山吹が、彩美達を促す。
「……すまないが、俺は先に帰る。
「あ、今日は特売の日やな!」
頷いた紅は、別れの言葉もそこそこに早足で去って行った。
『赤音』という、どうひっくり返しても女性の固有名詞であるそれに、悠陽が真っ先に食い付く。
「えっ、誰だ『赤音』って。まさか
「違う違う。く~ちゃんの親戚の子だよ。
苦笑混じりの山吹の説明に、悠陽がつまらなそうに唇を尖らせた。
「ちぇっ、大スクープかと思ったのになぁ……」
「紅は怒らせると怖いから、変な噂を流すのは止めた方が良いで。柳田はん」
「そうやで。移動教室の時に、階段から突き落とされるかもしれんな!」
「え。何か、やけにリアルなネタを突っ込んでくるじゃん……喜多見城を見る目が変わりそうなんだけど、それ」
難原兄妹と悠陽が、
彩美は彼等の背中を見送ることなく、俯いていた。
酷い脱力感から、顔を上げることが出来なかった。
少なからず、ショックを受けていたのだ。
紅は『第34755世界』の『門螺 彩美』と、彩美の接触を警戒していた。
だからあそこまで強引に、時には耳障りの良い言葉を用いてでも近付いて来た。
彩美を疑っていたから。
そこに特別な感情など、何一つなかったのだ。
「……ほら、帰ろーぜ。み~ちゃん」
平坦な声音で、山吹が言った。
彩美は彼に返事をすることなく、机の脇からスクールバッグを取ると、その場から逃げるように立ち去った。
ただただ下を向き、無心になって足だけを動かす。
信じたくなかった。
熱の籠る瞳を、瞬きをすれば何かが零れそうになるそれを。
紅の言動に、傷付いた己がいるということに、気付きたくなかった。
だから――彩美の耳には届かなかった。
「……馬鹿だなあ、紅。不器用にも程があるだろ」
山吹が洩らした、舌打ち混じりのぼやきなど。
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