第3話 迫る黒②


「――何やの、その目」



 あおの刺々しく、氷のように冷たい声が彩美あやみの横面に叩き付けられた。

 人を殺めることを「必要があれば」と称したくれない

 彩美が彼に向ける目に、恐れと軽蔑の色が含まれていることを鋭く察したのだろう。



「……別に」



 さすがにばつが悪くなり、彩美は顔を背けた。

 しかし素っ気ない、人によっては馬鹿にしているようにも受け止められるその態度は、青の怒りを激化させた。

 青が彩美の胸ぐらを掴み、無理矢理立ち上がらせる。見た目に反して、意外にも力が強い。



「やっ、止めぇや青!」



 彩美の背後で、むらさきが焦燥に満ちた声を上げる。

 彼のどこか間の抜けた口調がおかしくて、こんな状況だというのに口元が緩んでしまった。

 だが一種の現実逃避にも似たそれは、青の神経を逆撫でするのには十分だった。



「――この……っ、何笑ってんのや!」



 ブンと鋭く空気を切る音。青が右手を振り上げたのだ。


 何もかもがスローモーションに見える。


 彩美は迫り来る衝撃を予見して、反射的に目を閉じた。





 破裂音が屋上に響く。

 しかし頬への痛みは、いつまでもやって来なかった。



「……そこまでだ、青。落ち着け」



 彩美と青の間に割って入ったのは――紅だ。

 彼の背中越しに見た青の顔は、色を失っていた。

 余程、紅をってしまったことが衝撃だったのだろう。

 彼女の見開かれた瞳は動揺からか視点が定まらず、細い肩は小刻みに震えていた。


 青の様子から、これ以上彩美に手出しはしないと判じたのか。背中を向けていた紅が半身になった。

 振り向き様に、彼の左側が露になる。

 叩かれた拍子に包帯が外れたのか、緩んだ隙間から肌が露出していた。




「何、それ……」




 包帯で隠されていたそこに、真新しい火傷跡があった。


 特に酷いのは彩美の方を向いている左側で、引き吊れた皮膚が、表情を作るのに大きな影響を与えているだろうことは想像に難くない。

 元の顔が整っているだろうことが解るだけに、余計に生々しく、痛々しかった。


 思わず口にしてしまった言葉に含まれる、彩美の怯えに気付いたのか。

 紅ははっと背中を向け、緩んだ包帯を左手で覆った。



「――っ、すまない。見苦しいものを見せた」



 その言葉に返せる答えを、彩美は持ち合わせていなかった。

 目を背けたくなるような傷跡に、彼女が怯えを見せたのは明らかだ。

 誰も何も言えず、ただ沈黙だけが落ちる。


 しかしそれを破ったのも、矢張紅だった。



「……門螺かどにし、脅かしてすまなかったな。先に教室に戻ってると良い」



 彩美を労る、優しげな響きが背中越しに届いた。

 彩美に火傷跡を見せないよう、配慮しているのだろう。

 紅に何か言うべきだと、咄嗟に口を開く。


 ――「ありがとう」?


 ――「ごめんなさい」?


 だがそのどちらを伝えても、それは紅の傷跡に対して恐怖心を見せたことに対する肯定でしかない。

 故に、彩美は何一つ言葉にすることができなかった。


 だから、彩美はその場から逃げ出した。

 醜く、無様で……酷く恥ずかしかった。

 誰よりも、何よりも自分が一番矮小で、嫌な人間だった。






 冷静さを欠いた足音が遠ざかって行くのを聞きながら、紅は小さく溜め息を洩らした。



「焦り過ぎた。話題を間違ったな。すまない、青」



「……何で紅が謝るん。おかしいやろ、それは」



 悔しそうに唇を噛む青に苦笑し、紅は「気にするな」と彼女の肩を叩いてから元の位置に座り直した。

 彼に倣うように、他の三人も腰を下ろす。

 緩んだ包帯を直そうと手を動かす紅だが、元々の不器用さも相俟って更に包帯が緩んでいく。

 頻りに首を傾げる紅を見ていられなくなったのか、山吹が「あーあー。ほら、く~ちゃん。やってやるから、俺に背中向けなよ」と、口と手を出した。



「……すまない」



「あ~ちゃん渾身の一撃だ。そりゃあ、包帯もほどけるよなぁ」



 けらけら笑う山吹の手は、口同様滑らかに包帯を巻いていく。

 それに対し居た堪れなそうに、青が肩を丸めて縮こまった。

 紅は後ろの山吹を首だけで振り返り、半目で睨み付ける。

 彼の鋭い視線を受け、山吹は首を竦めた。



「……相変わらず器用だな」



「器用貧乏なだけだ」



 山吹があっという間に包帯を巻き終えると、紅は礼の言葉と共に身体の向きを変えた。

 青は紫に宥められているものの、俯いて膝の上で両拳を握り締めている。


 ――解っているつもりだ。

 否、つもり


 青が彩美をどう思っているのか、痛い程に解っているはずだったのだが……その気になっていただけだということを、今回思い知らされた。



「青。俺はお前の気持ちが、嬉しかったよ」



「……そんな言うて貰う資格、私にはあらへん。私は門螺かどにしはんに、八つ当たりしただけや。みっともないにも程がある。これで門螺はんと紅がやり辛くなったら、私のせいや。ほんま、堪忍な」



「良い。……どうせ遅かれ早かれ、こうなっていただろうからな。同じだ。本当は俺達に、勝ち目なんてないのかもしれない。無意味に繰り返すだけ繰り返して、無駄に時を過ごしているだけなのかもしれない――なんてな」



「紅……」



 眉をハの字に下げる紫に、紅は微笑んだ。

 疲れきった笑みに、紫は言葉を失って黙り込む。



「――切り替えろ。付け入る隙を見せるな。終わらせる。……終わらせるんだ」



 自分に言い聞かせるように、紅は強く繰り返した。











 縁取りに豪奢なレリーフが刻まれた鏡の前に、黒姫くろひめは立ち尽くしていた。

 鏡の中ではいつぞやのが血に塗れ、倒れ伏している。


 これは最早黒姫と、白姫しろひめの中にしか存在し得ない記憶になってしまった。



「……」



 黒姫は『この世界』を、否。彼女が統治する全ての世界のことを、まるで昨日のことのように思い出すことが出来る。

 それは消えない傷跡の如く、根深い記憶だ。

 しかしそれでも――。


 黒姫はレリーフを指でなぞると、突如背後に現れた気配を顧みた。



「――また感傷に浸っているの? 相変わらず暇ね」



 死んでしまった時間の中で、同じく死んだ少女が攻撃的な口調で言った。

 彼女のこの物言いはいつものことだ。自分の正義を信じきった、自信に満ち溢れたそれ。


 おごり昂るのは青臭さの象徴とも言えるが、ただ子供なだけだろう。

 頭でっかちの小さな餓鬼が、きゃんきゃん吠えている。そう思えばこの高飛車な口振りも、愚かで可愛らしく感じる。

 だから黒姫は、寛大に応対してやった。



「高尚な趣味と言ってくれないか。私に流れる永久にも似た時間が、懐古の念を呼び起こすんだ」



「は、『人の思いは所詮、記憶の奴隷』ってね。昔を懐かしむのは、年寄りの証拠じゃない?」



「失礼な、それも嗜みだ。――それで? 私と言葉遊びをしに来た訳じゃないだろう? それこそ、暇の極みだな」



「当然」



 そう短く答えた少女の後ろに、ひっそりと三人分の人影があった。

 一体どんな手練手管か。彼女の『仲間集め』は着々と進んでいるらしい。



「それは重畳だな」



『簡潔こそが英知の真髄である』。

 今ならば、眼前の少女にそう返したであろう。

 黒姫は機嫌良く笑った。





 第3話 迫る黒 完

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