第5話 茜差す君の横顔④

 彩美あやみ朱巳あけみの会話に割って入ったのは――赤音あかねだった。


 彼女の声音には微かに怒りが滲み、彩美を睨み付けるその視線は鋭い。

 更に何か言い募ろうと口を開き掛ける赤音を、朱巳が制した。



「そこで転んでしまってね、彼女に助けてもらったんだ。責めないであげてくれ、赤音」



「転んだ!? 大丈夫ですか!?」



 血相を変える赤音に、朱巳があっけらかんと「大丈夫、大丈夫。怪我はないよ」と口にする。



「野良猫が可愛くてね。つい杖もなく出歩いてしまった」



 のほほんと笑う朱巳に、赤音がほうと安堵の息を吐いた。

 そして彼女は丸く短い眉を吊り上げ、強い口調で告げる。



「気を付けて下さい、朱巳様。以前のお身体とは違うんですから……何が脅威となるか解りませんよ」



「そうだね、勝手が違うからまだ慣れないな」



「ゆっくり時間を掛けていきましょう。私も微力ながらお力添え致します――それと朱巳様、大橋様という方よりお電話です」



「分かった。……じゃあ門螺かどにしさん、ゆっくりしていってね」



 廊下の手摺を伝いながら、朱巳の姿が玄関の方へと消えて行く。

 それを見送った赤音は、彩美に一瞥くれると「朱巳様を助けて下さり、ありがとうございます」と口にした。


 ……どこからどう見ても、顔と話の内容が合っていない。



「――朱巳様から、並行世界のことをお聞きになりましたね?」



「アンタ、いつから……」



「私は貴女が嫌いです『門螺かどにし 彩美あやみ』。貴女は私のことも、くれないお兄様達のことも裏切った――許しません。紅お兄様達が許しても、この私だけは……絶対に」



「……いつ、どこの世界の私がアンタ達を裏切ったのか、そんなものに興味はないわ。お生憎様、それは『私』じゃないもの」



 今の『門螺 彩美』はここにいる彩美だけだ。

 彩美にとって並行世界等と言う眉唾物に存在する

『門螺 彩美』の存在なぞ、ただのそっくりさん。赤の他人だ。


 ――そんなものに、己の存在を揺らがされてたまるものか。


 ――まるで『門螺 彩美』本人のように、語られてたまるものか。



「……人を小馬鹿にするようなその口振り、変わりませんね。結局貴女はどこまで行っても、どの世界であろうとも『門螺 彩美』なんですよ。多少なりとも違いがあれど、私がどの世界でも『北澤きたざわ 赤音あかね』であるように」



「私はオカルトも、哲学も嫌いよ。SFもね」



「それも知っていますよ『門螺 彩美』さん。嫌になる程に」



 赤音も、あおと同じだ。

 二人の言う『門螺 彩美』が同一人物かまでは解らないが、いつかの、どこかの並行世界で、彩美ではない『門螺 彩美』が彼等に何かしたのは事実なのだろう。



「こんなことを言われて、一番困惑しているのが貴女であることも解っているんです。私が身勝手なことを言っているのも――それでも」


「私はの貴女に希望を見た。恐らくは紅お兄様も。それを、あんなにもあっさりと――恨みます『門螺 彩美』」



 赤音の疲れ切った声音は、蛙の鳴き声に掻き消されそうな程にささやかだった。

 赤音は彩美より少し背が低い。俯くと、旋毛つむじと細い首が目に入った。

 沈み掛けた夕陽に照らし出され、紅に良く似た赤みのある毛髪が一層その色を増す。


 ――残り火のようだ。


 ――風が吹けば消し去られてしまうような、蝋燭にも似た束の間の種火。


 赤音がゆるゆると首を左右に振り、残り火が揺れ動く。最後の足掻きで燃え上がるが如くに。

 雲が流れて夕陽を遮ったか。一瞬辺りが暗くなり、炎が消える。



「……紅お兄様のお部屋に戻られましたら『三十分後に、居間に来て欲しいと赤音が言っていた』とお伝え願えますか?」



 彩美は頷くだけに留め、その場を後にした。

 お互い言葉を交わした所で、平行線を辿るだけだ。


 赤音は今の『門螺 彩美』を見ていないし、彩美は彼女の言う『門螺 彩美』を知らない。


 二人の視線の先にあるものは全く異なる。お話にすらならない。何も始まらないのだ。



 ――そう。『取り返しのつかぬことなど 考えてみたってしかたがない 終わったことは終わったこと』。











 紅の部屋に戻ると、むらさきの素っ頓狂な声に出迎えられた。



「彩美遅かったな、迷ったん?」



「いえ……喜多見城きたみしろ、アンタの父親が庭で転んでたわよ。怪我はなかったみたいだけど。あとアンタの親戚の子が『三十分後に居間に来い』って言ってたわ」



「……また手ぶらで出歩いたのか。父に手を貸してくれたんだろう? ありがとう 、門螺。少し様子を見て来る」



 早足で部屋を出て行く紅を見送り、彩美は何てことない顔でやりかけの宿題に取り掛かる。



「……赤音ちゃんにうたんや」



 独り言なのだろう、青の呟きが耳に入った。

 彩美は大層皮肉っぽく聞こえるように、言ってやった。



「いつかのアンタそっくりだったわ」











 書斎に戻っているのかと思い襖を開けると、父ではなく別の人物が部屋の隅にうずくまっていた。



「……赤音。電気も点けずに、そんな所で何をしてるんだ」



「三十分後に来て下さいと言ったはずです……」



「台所で、お茶を一緒に準備してくれただろう。あの時点でカレーはほぼ出来上がっていた。あとはカツを揚げるだけの状態のはずなのに、赤音にしてはやけに時間が掛かるんだなと不思議に思ったんだ。……料理を作った試しもない身で、こんな言い方はあれだがな」



 薄暗くて表情までは伺えないが、泣いているのだろう。

 鼻の詰まった声が弱々しく震えている。

 赤音の泣き方は昔から変わっていない。彼女は子供の頃から、何かあると誰もいない場所に行って一人で泣く。


 赤音は幼い頃から気が強く正義感も強いので、虐められたとかそういう理由ではなく「他の子にきつく言い過ぎて泣かせてしまった」と落ち込んでいることが多かった。

 紅は彼女に聞こえない程度に溜め息を吐くと、その隣に腰掛けた。

 これも昔から変わらない。泣いている赤音を慰める時、紅はいつも彼女の傍らに座るのだ。



「……どうした?」



「……」



 白いブラウスの袖で、赤音がごしごしと目元を拭う。長袖のそれは涙に濡れて、しっとりとしていた。

 紅は苦笑し、スラックスのポケットからハンカチを取り出して手渡す。

 赤音がアイロンを掛けたハンカチを当の本人に手渡しているという状況に、紅は何とも言えない気分になった。


 ちなみに洗濯だけは赤音に任せていない。

 赤音自身は「やりますよ」と言ってはくれたのだが、年頃の少女に男の下着を洗わせるのは、さすがに許可できなかった。

 大人しくハンカチを受け取った赤音が目元をそっと押さえるのに安堵し、再度問い掛ける。



「何があったんだ? 俺に話せないことか?」



「……彩美さんに、八つ当たりをしてしまいました」



 青との一件がふと頭を過り、ああと納得する。

 青と赤音が以前の『門螺 彩美』と心を通わせていたのを、紅も知っている。


 あの『門螺 彩美』に向けていた青の感情が、恐らくは友情以上のものだったことも。



「彼女は私に言ったんです。『この繰り返しを必ず終わらせる』って、『約束するって』。信じてたのに。彩美さんならって、私、信じてたんです。なのに、なのに……」



 ぼろぼろと大粒の涙を流す赤音の頭部にそっと手を回し、己の肩に引き寄せた。

 紅は自身と良く似た色合いの、柔らかい毛髪に頬を寄せる。子供の頃と同じように。



「……そうだな。俺も信じていたよ」



 『第34755世界』の『門螺 彩美』とならば、この繰り返す世界を終わらせることができるかもしれないと思った。確かに、思っていたのだ。


 ――三万回以上繰り返す、地獄のようなこの世界を。


 赤音の慟哭が、薄暗闇に包まれた室内に寂しく響く。

 紅は静かに目を伏せた。闇に覆われたそこに、光は一切見当たらない。



(……誰か、俺達を救ってくれれば良いのに)



 その願いは届かない。

 それこそ三万回以上祈って来たが、紅の願いが聞き届けられることは一度としてなかった。


 ――それはきっと、これからも変わることはない。


 頬に触れる赤音の温かさに、紅の瞳から一筋滴が流れる。


 これは赤音に釣られただけ――そのはずだ。


 紅は次から次へと流れる滴に無理矢理理由を付けると、溢れそうな感情に蓋をした。





 第5話 茜差す君の横顔 完

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