奈落に沈む君を追って⑤
「それで、話とはなんでしょうか」
夏の暑さも落ち着き、少し肌寒さを感じる冷たさを含んだ風が
そこで「お弁当も持って来れば良かったな」とふと思った。
こういう時、自分の至らなさが憎らしく感じる。「紅は優しいけれど、時々周りが見えなくなるのが玉に瑕よね」と、母からも度々指摘される点でもあった。
「……ごめん、昼食を食べる時間を圧してしまうね。まずは話よりも先に、お昼に誘うべきだった」
謝罪した紅に、
「そうではないような気もしますが……貴方は、相変わらず変な所で律儀ですね」
彼女の声量は風に
尋ね返すも首を横に振った彩美は頑なで、その頑固さには紅も白旗を振る。
「それで、貴方の用とは何でしょう。
「
彼の昨日の態度に苛立ちを覚えたのは、紅とて同じ。ならば彼が彩美から怒られようと、嫌われようと、紅の知ったことではなかった。
紅のことをただの大人しい優等生だと思っているのなら、大間違いであるということを思い知らせてやる。
山吹が眼前の少女――『
紅がそれを邪魔する権利も資格もないのは重々承知の上だが、それは山吹も同様だ。
彼とてこの呼び出しを止めなかったのだから、紅だけが遠慮する理由はない。
「……吾妻屋君が、それを貴方に話したのですね?」
心底疑問に思っているだろうことが伝わる、不思議そうな声音だった。
さすがに、これは山吹に同情せざるを得ない。
山吹自身は「そんなものいらない」と突き返して来るだろうが。
あんなに解りやすい秋波を送られて、気付いていないのか――彼女は。
恋愛事に疎い紅とてぼんやりと感じ取ったそれを、向けられている当の彩美は一切察知していない。
むしろあれ程までに恋い焦がれるような、切なくも熱い色を宿す瞳に映される己の姿に、何も思わないのだろうか。恋情とはこうも度し難く、理解できぬものなのか。
まるで哲学のような思考に埋め尽くされた紅の意識を、彩美の平坦な声が現実の屋上へと引き戻す。
「吾妻屋君が何を思い、その話を貴方にしたのか。……理解不能です。ですが、彼の話は真実です。肯定します」
「僕が君と会ったのは、高校に入ってからだ。そうだよね?」
「はい」
「そう……なら、僕と君はこことは別の世界で会っている。そしてその僕に何らの事が起こり、君は僕という存在を並行世界に関わらせたくないと思った。……どうだろう、当たってるかな?」
彩美が口を閉ざし、紅を真っ直ぐに射抜く。
紅が真摯なその視線を見詰め返すと、先に目を逸らしたのは彩美だった。
「貴方は本当に、変わりませんね……」
彼女は懐かしむように目を細めると、幾分か人間味のある口調で呟いた。
「ねぇ。他の僕も『今の僕』みたいな感じなの?」
「……いいえ。今の貴方の方が穏やかで、心にゆとりがあって――幸福そうに思えます。だから並行世界に関わらず、このまま何も知らずに生きていて欲しかった。たとえ私が、何を犠牲にしようとも」
「……君にそんなことされても、僕は嬉しくないよ」
「――私は罪深い」
脈絡のない彩美の台詞に、紅は小首を傾げる。
彼女の思考が読めない。言語の通じない相手と話しているかのような、そんな印象を受けた。
「私は救いたいと願ってしまった。――願っただけでは飽き足らず、私の想いは具現化してしまった。この、胡蝶の夢の中で。本当ならば、私の物語に続きなんてなかったはずなのに」
疲れ果てた老女のような顔で深い溜め息を吐いた彩美が、暗い瞳で紅を窺い見る。
「――ごめんなさい、喜多見城君。それでも貴方の手を離すことができない私を、どうか許して」
懺悔のようだ。
彩美のまろい頬をつぅっと一筋の涙が伝う。ドラマのワンシーンのように美しいそれに、紅は魅入られた。
滴が細い顎先を流れ、はらりと屋上に落ちる。
――豊穣を告げる雨のようだな。
まるで、夢見がちな少女のような感想を抱く。
同時に、その恵みの雨によって紅の心に小さな小さな芽吹きがあった。
「――なら、僕が君の救いになるよ」
彩美が目に見えて大きな反応を返した。
まん丸に見開かれた彼女の瞳が、鏡のような透明さで以て紅を映す。
彩美を通して見た己の必死な顔に、紅は嘲りにも似た笑みが溢れそうになる。
それを鑑みれば、紅が彩美に対してどのような想いを抱いたかなど……特に山吹にはお見通しだろう。
何せ、同種の感情を持つ者同士だ。
「僕が君の支えになる。君がどの『僕』を救いたかったのか、僕は知らないけれど――今世では必ず君を支えてみせる。この『
一世一代の告白染みたそれ。
紅としては精一杯の想いを込めたつもりだったのだが、彩美の表情は晴れない。
むしろ彼女の
「……『因廻』は貴方が思っている程、良いものではありませんよ。喜多見城君。『因廻』は謂わば予定調和――ある意味で貴方を、物語を、正しく導くためのものです」
柳のように
彩美と紅の間には、大き過ぎる隔たりがあった。
心の柔い所に紅が踏み入ろうとするのを良しとしないのも、そもそも踏み入れさせる気など更々ないことは、彩美のこの機械仕掛けめいた淡々な口調からも読み取れた。
「しかし私がどう足掻こうとも、歯車は廻り始めてしまった。喜多見城君。どうか生きて、見届けて下さい――『この世界』の、結末を。それが私の願いです」
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