第9話 全ての色をぶちまけて③
その短さは余りに情緒のない決定だとも思ったが、間を空けると変に名残惜しくもなりそうだ。
そう考えれば、彼女の判断は妥当だったのかもしれない。
その三日間は嵐の前の静けさのように、
こちらの考えが筒抜けているかのようなそれに若干の不安を覚えなかった訳ではないが、
まるで、並行世界や
朝は嫌々ながらも起床し朝食を食べ、学校に行く支度を始めて。
昼は
夕方は馴染みある通学路を通り、真っ直ぐ帰宅する。たまに近所の人から「お帰り」と声をかけられるのも、至って普段通りだ。
そして夜は家族揃って夕食を囲み、風呂に入って宿題をこなし、日付が変わる前には床に就く。
ただただ平穏な三日間は、あっという間に過ぎていった。
三日目の夜、眠りに就くまでのほんのちょっとした時間。彩美は布団の中で、明日について思いを馳せる。
紅達は、どんな三日間を過ごしたのだろう。
ふと、そんな感傷が過った。
三万もの世界を繰り返した彼等の旅は、この『第34756世界』を以て最後となる。その感慨深さは彩美よりも紅達の方が
そうして彩美の思考は、黒姫と『第34755世界』の『
紅達の旅路がこれで終わるように、並行世界の彼等の旅もこれで終わるのだ。円環世界はその理を失い、繰り返すことのない世界へと上書きされる。
それはようやく、紅達が並行世界などというものに左右されない未来を手に入れられるということだ。
そこで唐突に、彩美の心をぽっかりとした喪失感が襲った。
彩美と紅達の繋がりは、白姫と黒姫――並行世界の存在があってこそのものだった。
それが失われるということは、彩美達が共にいる意味も、必要もなくなるということと同義だろう。
強固な繋がり。その理由が失われれば、目に見えない人の縁など少しずつ薄くなっていく。
そして歳を重ねるごとに思い出は色褪せ、忙しなく日々を消費するだけの大勢の大人の内の一人になっていくのだ。
そうして紅達の意識から『門螺 彩美』の存在も失われていく。勿論、それは彩美にとっても同じこと。
――それは、考えただけで恐ろしいことだった。
訪れ掛けていた眠りの淵が、一気に遠ざかって行く。
途端に耳に付く己の細い呼吸音。暗闇に慣れた目が、部屋にある姿見を捉えた。
『第34755世界』の『門螺 彩美』も、こんな気持ちを覚えたことがあるのだろうか。
……いや。あの『門螺 彩美』とて彩美の一面だ。確実にあるだろう。特に、彼女は紅に執着しているようだった。
並行世界の存在が失われ、紅から少しずつ忘れ去られて過去の存在へとなっていく己の姿。それを想像した時、『門螺 彩美』なら何を思うか。
何より、誰より、彩美だからこそ理解できた。
だがあの『門螺 彩美』の手を取ることも、彼女と同じ道を辿るということも――彩美は決してしない。できやしない。
『第1世界』の話を
あの時『第34755世界』の『門螺 彩美』と紅について、山吹はこう口にした。
「これは俺の予想だけどさ。多分、く~ちゃんにとっての『門螺 彩美』は――『第34755世界』の『雪の女王』の『門螺 彩美』なんだ。当の本人は気付いてないかもだけどさ」
数日経った今ですら夜道の暗さ、虫の鳴き声、空気の臭い、山吹の浮かべる表情と声音、何一つ洩らすことなく、事細かに思い描くことができる。
――忘れられるはずがない。
だって、始まる前に終わった
同じ『門螺 彩美』とは謂えども、彩美はあの『門螺 彩美』ではない。
彩美は彩美だと、そう望んだのは自分自身なのだから。だからこそ、あの『門螺 彩美』と同じ轍は踏まない。彩美が彩美であるためにも。
ほんの少し。ほんの少しだけ――『忘れる』という選択肢を選んだどこかの『門螺 彩美』の気持ちを理解した。
そして滲む視界を眠気のせいと言い訳し、彩美は固く目を瞑る。
暗転した世界に、気付けば眠りに落ちていた。
「……それでは、宜しいですか?」
思い詰めた表情の白姫が、硬い声音で言った。
しかし彩美達を真摯に見詰めるその眼差しは、決意に満ちている。
そこに宿る意志の強さは、生に一切執着してない者特有のものだ。無鉄砲さすら覚えるそれは、故に堅固なものでもある。いっそ恐い位に。
白姫は彩美達一人一人の顔色を伺うと、己を鼓舞するように頷いた。
彼女が目を閉じると、いつもと変わり映えのしない鏡の空間がだまし絵のように捻れて歪む。次いで白色の絵の具をぶちまけたかのように、一面が真っ白に染まった。
しばししてぽつりと黒色の染みが現れたかと思うと、それはどんどん大きくなっていく。
否。染みなどではない。
あれは黒姫が治める並行世界、そのものだ。
そう認識した途端白と黒の世界は混ざり合うことなく、一続きの空間として交錯した。
黒姫が待ち構えていたように、彩美達の前へと立ち塞がる。
しかし白姫は狼狽えることなく、己と反転した色合いを持つ瓜二つの顔を見返した。
「来ると思っていた。貴様は私だからな、お姉様」
「ええ、そうだと思っていました。貴女は私ですから、黒姫」
そして黒姫の佇む黒の世界から、闇に紛れるようにして黒いセーラー服を纏った少女達が現れた。
『第34755世界』の『門螺 彩美』と『
その背後には闇に覆われて輪郭しか窺えないものの、あと三人程の人影が見えた。
「あれだけアタシ達の陰に引っ込んで、高みの見物を気取っていたアンタが……一体どういう風の吹き回し?」
『門螺 彩美』が、悪意に満ちた嘲笑を白姫に向ける。
だが、白姫は動じない。彼女にとっての『第1世界』と彩美達の生きる『第34756世界』しか現状残されていない今、『門螺 彩美』の幼稚とも呼べる皮肉に白姫が応えることはない。
後に引けないからこその白姫の屈強な態度は、瀕死の獣が最後の抵抗を見せる時のようにも似ている。
「ここまで、本当にありがとうございました。貴女達に会えて良かった。……そして、彩美さん。どうか生きて、見届けて下さい。『この世界』の結末を」
白姫は相変わらずのハの字眉を更に下げ、困り顔で微笑んだ。
彩美達のやり取りを、黒姫が訝しげにしている。白姫の行動までは読めても、彼女の心までは推し量れないのだろう。
当然だ。幾ら姿形が似ていようとも白姫と黒姫は決して同一の存在ではなく、一人の人間、『個』であるのだから。
「……何をする気だ。何を考えている、白姫」
「私が『第34755世界』での貴女の行いを理解できなかったように、貴女も私が今から何をするつもりなのか、解らないでしょう? ……でも、それで良いんです」
白姫の足元から、白の世界が広がる。
それは黒姫を『門螺 彩美』を『柳田 悠陽』を、そしてその協力者達をそれぞれに呑み込もうとする。
しかし、彼女達とて大人しく捕らわれるような質ではない。
黒姫は己を捕らえる白に対抗しようと、自身が引き連れる黒を負けじと蠢かす。
『門螺 彩美』以下彼女の協力者達も黒姫から貰った能力を発動させそれぞれ抵抗するが、ここにいるのは白姫だけではない。
「『動くな――のうぼう あきゃしゃ ぎゃらばや おん あり きゃまり ぼり そわか』」
紅の真言が黒姫達の動きを一瞬止めた。
それを見計らって紅、
「――行け、門螺!」
力強いそれに背中を押されるようにして、彩美は駆け出した。
動きを止めた黒姫達の傍らを通り抜け、彼女の統べる黒の世界――黒姫が唯一残した『白姫と黒姫にとっての第1世界』を目指して。
彩美は後ろ髪を引かれる思いで、紅達を振り返る。
そこには何か眩しいものを見るように、目を細めて彩美を見送る彼等の姿があった。
「またな、彩美!」
「また明日、門螺はん」
「み~ちゃん、また明日な!」
山吹が歯を見せて笑う。彼の耳朶に飾られたピアスが、楽しげに揺れた。
紅は彩美の背中をじっと見詰め、小さく、本当に小さく囁くように言った。
「また会おう――彩美」
彩美のことを頑ななまでに名字で呼んでいた紅が、初めて彼女の名前を口にした。
彩美がその感慨に浸る前に、青と紫は『門螺 彩美』の協力者達と。山吹は『柳田 悠陽』と。紅は『門螺 彩美』と。白姫は黒姫と、白の世界に呑み込まれる。
彩美はそれ以上見ていられず、無我夢中で走った。
道などない。辺りは暗闇に包まれ、今進んでいる道が正しいのか間違っているのか、それすらも解らない。
彼女にできるのは――鏡を探すことだけ。
闇に包まれたこの広大な並行世界のどこかにある、『白姫と黒姫にとっての第1世界』に通じる鏡を。
『
彩美にできるのは、ただそれだけだ。
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