第9話 全ての色をぶちまけて④
滲む視界を、セーラー服の袖で滅茶苦茶に拭う。
硬い生地は目元周りの薄い皮膚を痛めたが、そんなことは
止まりそうになる足を叱咤しながら思い起こされるのは、昨日の
「
「『刹羅』? 何で『刹羅』?」
山吹は白姫の言葉を鸚鵡返しにする。
白姫は、小さな子供に対するような温かな眼差しを山吹に向けた。いつもの弱々しい彼女の気配は鳴りを潜め、母親にも似た慈愛に溢れている。
そこでこの眼前の少女が、見目だけは彩美よりも幾分か年下に見える少女が、人成らざるものであることに唐突に思い至る。
「――私が、
「……殺すの」
問われた白姫は微かに目を開き、困ったように口の端を持ち上げる。そして、山吹に改めて目を向けた。
「私の手に『刹羅』がある間、山吹さんは無防備になってしまうのですが……」
「……姫ちんは、本当にそれで良いんだな?」
「それが、私のけじめですから」
山吹は肩を竦めると、「解ったよ」と頷いた。
それはどこか屋上での彼と紅のやり取りを想起させ、彩美は何とも言えない気持ちになった。
白姫は礼の言葉を口にすると、今度は彩美の方に顔を向ける。
「それと彩美さん。彩美さんにも、お願いがあります」
「……何よ」
話だけは聞くというスタンスで先を促すと、白姫は全てお見通しとでも言うように微苦笑を浮かべた。
「私達が黒姫達と戦闘になったら、彩美さんには探して欲しいものがあるのです」
「『探して欲しいもの』?」
予想とは斜め上のお願いに、彩美は眉を寄せた。
黒姫を目の前にして、探し物などしている場合だろうか。白姫は一体何を考えているのだろう。
「私と黒姫にとっての『第1世界』――唯一黒姫が残したであろう、『第1世界』の鏡を」
「鏡……? それを探し出して、私にどうしろって言うの」
「先程少し触れましたが、黒姫の統治する並行世界は『既に終わった世界』です。一度、『
「……『輪廻』は『次の世界』の私のものになる。だからその『既に終わった世界』では、一度目の台本通りに『門螺 彩美』が死んだとしても『輪廻』は発動することなく、白姫や黒姫の
「はい、その通りです。そしてその『既に終わった世界』に時を刻んでいる最中の――『輪廻』の発動する条件を満たしていない『門螺 彩美』が現れたとしたら?」
「……」
「『終わっていたはずの世界に、新たな時間軸が生じる』……?」
愕然と呟いたのは紅だった。
それは誰に聞かせようとして発言したものではなく、思わず口から零れてしまったものであるということが、ありありと伝わった。
目を丸くして言葉を失う紅は、いつもより年相応に見える。
「そうです、紅さん。私と黒姫が『第1世界』と呼ぶ世界が――正しい時間軸、正しい世界線に変わる。それに伴って、今私達が存在するこの『第34756世界』は失われる……と私は予想しています」
「……それが、大博打って訳やな。何や、本当に成功率の低そうな話やんか」
暗闇の中で彷徨う旅人が一筋の光明を見付けた時のような、そんな安堵の様相すら感じられた。
「ま、何もしないよりはマシやろ!」
「だろうな。それに、今まで繰り返して来た三万回の世界だって博打みたいなもんだったし……今更だろ」
楽観的とも言って良い彼等の台詞に、気付けば固く拳を握り締めていた。
「アンタ達、解ってるの? 今、白姫は私達のいるこの世界……『第34756世界』が失われると言ったのよ。私が『第1世界』に行くことによって、私以外のアンタ達全員、何もかも」
「――だが、それでも。それでも『俺達』という存在が永遠に失われる訳じゃない。『第1世界』にも『俺達』はいる……そうですよね、白姫」
淡々とした紅の問いに、白姫がゆっくりと頷いた。
「それは、今の『アンタ達』じゃない……!」
彩美の柄にもない叫びが、鏡の世界に反響する。
――この慟哭によって、こんな鏡なんて全て割れてしまえばいいのに。
唇を噛み締め俯く彩美に、紅の声が掛かる。
場違いなまでに穏やかなそれに、彩美は反射的に顔を上げた。
「だが『第1世界』の俺達の中にも……『俺達』は必ずいるはずだ」
紅が、山吹が、
彼等の眼差しには彩美を、大切な友人を想う温かかな光が灯されている。
「だから――お前が見付けてくれ。『俺達』を」
荒く乱れた己の息が、彩美の回想を打ち破った。
いつまでも続く暗闇に心が折れそうになる。
だが脳裏を過る紅達の表情が、彼等の言葉が、それを許してくれない。
「――ねぇっ! いつまで走ればいいのよ、白姫! 答えなさいよ……!!」
更に呼吸が乱れるのも承知の上で、彩美は永遠にも似た暗がりに問い掛ける。
答えが返って来ないことも、重々承知していた。何故ならここは黒姫の支配下。完全に黒姫の領域なのだ。
『第1世界』の鏡なんて、本当にあるのだろうか。
そもそもそう言い出したのは白姫であり、根拠がある訳でも確かな証拠がある訳でもない。
実は『第1世界』の鏡など既に壊されていて、彩美のしていることなど全くの無駄なのではないか。
そんな、嫌な考えばかりが彩美の頭を廻る。
文字通り世界に一人。放り出されて何を信じればいいのか、何が間違っているのか。己という存在の信憑性や今まで培ってきた価値観すら、酷く曖昧なものに感じられた。
彩美のいた 『第34756世界』はどうなったのだろう。
白姫と黒姫の決着は、紅達は無事なのだろうか。
それとも――全て終わってしまったのか。
「どこ、どこなの、どこなのよ……!『第1世界』の鏡は……! 出て来なさいよ。これだけ私を、私達を振り回しておいて……っ」
零れ落ちる涙もそのままに、譫言のように言い募る。
相手は無機物の鏡だ。彩美の訴えを聞いて「はい解りました」と話す訳でもなければ、況してや自分から足を生やして現れる訳でもない。
それでもこうして八つ当たり染みた口を利いていなければ、自分を保てなかった。
「っ出て来なさいって、言ってるでしょ……!!」
その時、彩美の視界の隅でちかりと何かが輝いた。
彩美は足を止め、目を細める。
目を凝らしたその先に、ぼんやりとした何かが見えた。円形の、何か。
それは弱々しいながらも、星の瞬きのように断続的に光を放っている。
――見付けた。
胸を突く衝動も何もかも置き去りにして、彩美は駆け出していた。
涙で濡れた頬に髪の毛が張り付いたが、そんなことは最早どうでも良い。
無我夢中で、彩美は手を伸ばす。
鏡面に指先が触れる馴染みのある感覚と共に、彩美はいつの間にか見覚えのある場所に立っていた。
「ここは……学校の、体育館……?」
彩美の呟きが広々とした体育館に落ちる。
するとそれを合図としたように、舞台の照明が点いた。一つだけ射し込むそれは、まるでピンスポットのようだ。
明かりの下に黒いセーラー服の――深冬黎明高校の制服を纏った少女が一人、立っていた。
野暮ったい黒縁眼鏡のレンズが、ライトに照らされて目映く光る。その輝きは、彩美の目を眩ませた。
「『この世の関節がはずれてしまった。ああ、何の因果だ。それを正すために生まれてきたのか』」
芝居掛かった口調で発せられたのは、シェイクスピアの四大悲劇の一つ『ハムレット』の劇中で登場する台詞である。
少女の手には丸められた台本が握られていて、慣れた口振りからも台詞を暗記しているだろうことは明らかだった。
しかしそれ以上に彩美の目に止まったのは――少女そのものだ。
「『私』……?」
「『どうした、さあ、一緒に行こう』」
少女――眼前の『門螺 彩美』は『ハムレット』の第一幕第五場の台詞を言い終えると、一拍置いてさっと頭を下げた。まるで演者の舞台挨拶のように。
「初めまして『第34756世界』の『門螺 彩美』。私は『第1世界』の……いえ、貴女達で言う所の『第0世界』の『門螺 彩美』。会えて光栄です。ようやく、その時が来たんですね」
舞台上のライトが一斉に灯り、体育館の一角だけが明るくなる。
ただ一人舞台上に立つ『門螺 彩美』は、無垢な少女のように小首を傾げて微笑んだ。
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