第56話 エリンの正体
玉座の間では、まずスレイプニルが倒れた。どうと音を立てて床に伏した後は、粘土細工のように崩れて床に吸収されていく。
床や壁の歪みも徐々に収まり、やがて元通りの石造りになっていた。
けれどもエリンは分かっている。これでやっと五分五分だと。
ここからが本番だ。オーディンを打ち倒せるかは、今からの戦いぶりにかかっている。
『疑似・神造兵器、グングニル』
セティの助けを借りて、幾度目かの長槍がエリンの手に生まれる。
ユグドラシル中枢を制御した偽物<レプリカ>は、強力な支援を得て強い輝きを放っている。それでなお、真物とやっと互角なのだ。
「ロキの切り札、か……」
壇上で真なるグングニルを構えて、オーディンは呟いた。
「娘よ。お前、名は何という」
「エリン」
意外な質問に戸惑いながらも、エリンは油断せずに答えた。
「くくっ……エリン、エリンか。皮肉なものだ」
押し殺したように笑うオーディンに、エリンとセティは警戒と困惑の視線を向ける。
「エリンというのはな、アース神族の古い言葉で『故郷』を意味する。ユミル・ウィルスに侵され、自壊して消えた最初の祖国の星をそう呼んだ。黄金の林檎とも呼ばれる、それはそれは美しい星だったそうだ」
オーディンは笑声を止めて、エリンに向き直った。
「私は既に壊れた星に興味はない。私が守るべきは、我が同胞たち。共に宇宙を旅した十万の民たちだ。見せてやろう」
オーディンはグングニルの石突を床に打ち据えた。カツン、と硬い音が鳴る。
すると玉座の間の床や壁、天井に至るまでが景色を変えた。
それはユグドラシルの中ほどにある、巨大な水槽のようなもの。
その光景の内側に立つように視点が切り替わる。
水槽の中に眠るように佇む、深淵領域化したバナジスライトの群れ。見渡す限りの結晶体。数え切れないほどの光。
死んでしまった人々の、かつて生きた証であり記録――
オーディンはそれらの光に愛おしそうに触れて、言った。
「彼らは死んではいない。生きている。肉体こそ宇宙船の事故で
違う、とエリンは言いたかった。
失われた命は二度と戻らない。生前を完璧に再現したとて、それは蘇生にはあたらない。そしてアース神族の高い技術をもってさえも、完璧などあり得ない。
けれど言えなかった。オーディンの、彼女の仲間を求める心が痛いほどに分かってしまったから。
――行かないで、置いていかないで。
――わたしをひとりにしないで。
暗い夜、雪の舞い散る凍える中で、泣いている子供がいる。
去っていく背中、届かない彼らに向かって手を伸ばし続けている……。
エリンの心にふと、よく見知った光景が浮かんだ。
泣いている子供は誰なのだろう。幼い頃のエリンか、それとも。
「でも!」
それでも彼女は言った。夜の冷たさを、旅の温もりで包み込みながら。
「それでもやっぱり、死者は帰ってこない! あなたは、たくさんの生きている人を傷つけた。数えきれないほどの人を殺しもした。
そして今度は、この星ごと奪おうとしている。だから私は、あなたを止める!」
偽のグングニルを構えるエリンに、オーディンは皮肉なため息を吐いた。
「どうやら我らは、どこまで行っても平行線。話し合いは無駄のようだ。では力を持つ者として、互いの命を賭けて戦おうではないか」
オーディンとエリンの力のぶつかり合いは、さながら嵐を思わせた。
暴風雨のように力と力がせめぎあい、真と偽のグングニルが打ち合わせられる。
オーディンの槍が雷光であるならば、エリンのそれは雷鳴そのもの。
槍と槍とが打ち合うたびに、青白い火花が散る。轟音が玉座の間を揺るがす。
真グングニルが鳥の羽ばたきさながらの動きで旋回すれば、偽の槍は獣が地を駆けるように突き進み、突き上げる。
二人の女の銀の髪が、目まぐるしく交差してはたなびく。
玉座の間に激しい嵐が吹き荒れて、セティはおろか狼のフレキですら手を出せないでいる。
だが、永遠に続くかに見えた戦闘もひとつの契機を得た。
エリンが放った鋭い突きが、オーディンの仮面を割ったのである。
「…………!」
偽の槍はオーディンの右目のすぐ下に当たり、あっというまにヒビを広げた。開いた穴の崩壊は止まらず、ガラガラと崩れ落ちる。
仮面の下から現れたのは、女の顔。
「――エリ、ン……!?」
驚きのあまり、セティが声を上げた。フレキも戸惑っている。
あらわになった女は、確かにエリンと同じ顔をしていた。
無論、年格好は一回りも違う。未だ幼さの残る十三歳のエリンと、成熟した女としてのオーディン。
けれども姉妹や親子などというレベルではない。
完全に同一人物、本人以外ではありえない同質さでもって、彼女らは相対していた。
エリンは目を見開きながらも、口は引き結んでいる。
槍を何度も打ち合わせる度に、彼女には予感が生まれていた。
きっとオーディンは、エリンと同じなのだと。
「……は。改めて見ると、思ったよりも似ている」
仮面の欠片を投げ捨てて、オーディンは皮肉に笑った。
「オリジナルの顔を見た感想はどうだ? クローンの娘よ」
クローン。その言葉を胸に刻みながらも、エリンは答えた。
「今さら、何も」
「なんと、愛想のない。お前はもっと嘆いてもいいのだぞ? あのロキに、裏切り者に私を殺すための兵器として造られたのだから。
我らアース神族は不死、しかし死ぬ方法は一つだけある。――自殺だ。我らは自ら死を願った場合のみ、命を終えることができる。
ロキはそれを逆手に取り、お前という私のクローンを造った。クローンであればある意味では私自身。お前が私を殺せば、自殺が成立するという理屈だろう。そのペンダントも――」
オーディンが指差した。エリンといつも一緒にあった丸い石。ロキが首にかけてくれたもの。
「我が特性、『全能』の一部。劣化アカシックレコードであるシステム・ミーミルへの接続キーだ。どうせ私にしか使えぬからと、スペアを作っておいたのが仇になったな」
エリンは胸元のペンダントを握った。彼女の殻が破れて銀の髪、紅い目になって以来、石は常に真紅の色に変わっていた。
この石はエリン自身であり、オーディンそのものでもあったのだ。
「お前は生まれながらに、兵器としての宿命を負っていた。哀れなことだ。お前の使命は、私を殺すことだけ。それ以外は何もなく、空っぽで、誰からも求められず、誰にも顧みられない」
オーディンの言葉を、だが、エリンは笑い飛ばした。
「ばかみたい。全能の神だなんて言っても、なんにも分かってないのね。私は空っぽじゃない。私は一人じゃない!
色んな人に出会って、色んな場所を旅してきた。世界は広いんだと知った!」
ロキがエリンの出自を言わなかったのも、こういう理由だったのかと彼女は腑に落ちた。
彼はずっと、エリンに「一個の生き物としての命を全うして欲しい」と言っていた。
たぶん彼はオーディンが言うように、兵器としてエリンを造ったのだろう。
でもどこかの時期で後悔して、エリンに人として生きてほしくて、北の村に隠した。
「恨むならロキを恨め。私に歯向かうように仕向けた、あの裏切り者をな」
「ロキさんを? まさか」
エリンが微笑みさえ浮かべて言うと、オーディンは視線を険しくした。
エリンは思う。再会してからのロキは、まるで親馬鹿な父親のようだった。愛されているという実感がある。
だから、エリンはロキを恨んでいない。北の村に置き去りにされたのは、寂しかったけど。それももう昔のことだ。
「私は誰も恨んでいない。オーディン、あなたを止めて、星の
エリンが静かに言い切ると、オーディンはどこか動揺したようだった。
「恨んでいない? 何故だ。理不尽な宿命に巻き込まれて、何故恨まずに憎まずにいられる」
「大事なものがいっぱいできたから。ムスペルヘイムの人たちを殺したのは、許せない。でも、それも、恨むというのは少し違う気がする」
「……もういい。言葉はいらぬ。私はお前を殺して、同胞たちとこの星を去る。三千年の悲願を叶えて!」
そうして再び、容赦のない殺し合いが始まった。
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