第3話 白い獣
エリンは走る。雪を踏み固めた道の上を、ひたすらに。
脳裏に浮かび上がる景色は、村外れのもの。
子どもたちは屋根のソリ滑りに満足できなくて、山の入口まで足を伸ばしたらしい。
それなりに距離のあるはずの場所は、だが、エリンにとって問題にならなかった。
「すぐに行くから、待っていて!」
知らず、彼女は言葉に出して言った。無意識の力が作用して、雪道を蹴った足が浮く。
流れる風景がブレる。一歩が十歩に、百歩もの距離になって進む。たなびいたエリンの茶の髪が、残像のように閃いた。
冬の真昼の雪明かりを吹き散らして、エリンは疾走する。まるで一陣の風が吹き抜けるように。
ごく短い時間を経て、彼女は子どもたちの元にたどり着いた。
肉体の目で見た光景は、先程まで幻視していたものと同じ。
まばらな木立の中。打ち捨てられ、ひっくり返ったソリのそばに三人の子どもたちがいる。
一番小さいアルバが、柔らかい雪に足を深くはめてしまっている。何とか助けようとしている、フェイリムとティララ。
そして木立の向こう側、彼らを見下ろす巨大な獣のようなもの。
獣は、一見すると猪に似ていた。けれど大きさが違った。普通の猪の十倍ほどもある巨躯は、白っぽい毛に覆われている。
銀と言うには艶のない、薄汚れた白。老人の白髪のような色。雪とつららとをまとわり付かせて、まるで巨大な雪像のようだ。
だが雪像ではない。雪像であるはずがない。
その証拠に獣の暗赤色の双眸は、怒りと憎しみと欲望とで煮えたぎっていた。
――クルシイ、マブシイ、ヒモジイ。腹ガヘッタ、喰イタイ、肉ト血ヲ喰ライタイ……!
「……っ!?」
エリンは思わず両耳を押さえる。流れ込んできた思念は、今まで感じたどんなものよりもずっと、暗い苦痛に満ちていた。苦痛と怒りと欲望とでねじれた炎のような熱を放っていた。
同時に、逃げるのは不可能だと悟った。
この獣は、子どもたちを食うことしか考えていない。不自然な速さで現れたエリンに気づいても、獲物が増えた程度にしか思っていない。
「エリンおねえちゃん!」
ティララが叫んだ。恐怖に顔を歪ませて、それでも年下のアルバの手を離そうとしない。
エリンは彼らに駆け寄った。震えて動けなくなっているアルバの上半身を抱きかかえる。
アルバはスノーシュー(雪の上を歩くための靴。かんじきのようなもの)を履いた足を雪に埋めてしまっていた。
エリンは手早くスノーシューの紐をほどいて、足を雪から抜いてやった。
白い獣は重い地響きを立てながら、こちらに歩いてくる。
あれだけの巨体なのに、地響きが立つほどの重量なのに、柔らかい雪に埋もれることがない。
見れば、獣の進む足元が凍っている。一歩進むごと、氷が分厚い土台となって獣の足と体重を支えていた。
――アァ、ヒモジイ、クルシイ、マブシイ……!
獣の歩みが一瞬だけ止まった。次の瞬間、
『ガアアァアアアアァァァァッ!!』
咆哮が空気を震わせた。バキバキと音を立てて、辺り一面の雪が凍る。
同時、獣が突進してくる。凍った雪にひびを入れ、氷のかけらを撒き散らしながら。
冬の真昼の太陽の下、氷がきらきらと不釣り合いな美しさで輝いた。
(とても逃げられない。けれど、何とかこの子たちだけは……!)
子どもたちを背後にかばい、エリンは迫りくる獣を見る。
汚らしくよだれを垂らす口元に、黄ばんだ牙。苦痛と欲にまみれた赤い瞳。
怖い、とエリンは思った。きっと殺される。踏み潰されて、無惨に食われる。怖くてたまらない。
でも――
彼女の背後に小さな子どもたちがいる。怯えて震えて、それでもエリンを信じてしがみついている。誰も一人で逃げ出そうとしない。誰もがエリンを一人にしない。
それが嬉しくて、切なくて、悲しくて。エリンに勇気を与えてくれた。
「この子たちだけは、私が守る!!」
だからエリンは叫んだ。こみ上げる恐怖を飲み込んで、悲鳴のように。
彼女の人生で初めての、心からの叫びだった。
孤独を恐れるあまり心に蓋をしていたことも。打算でもって周囲と接していたことも。
全部忘れて、ただ必死に。ありったけの願いを叫んだ。
――と。
エリンの胸元でペンダントが光った。彼女の瞳と同じ色、ダークブルーの球体がみるみるうちに色を変える。
青から紫に、赤に、真紅に。
獣の淀んだ赤とは違う、鮮血のような紅の色。
時を同じくして微かな声が聞こえた。ひどく遠くに聞こえる、不自然な声。
――所有者の危険を感知。システム・ミーミルに偽装接続、守護術式を検索……展開。
不思議な声が途切れると同時、真紅の石がさらに光を強めてエリンたちを包んだ。光はすぐに円筒状の壁となって、獣との間にそそり立つ。
『グアッ!?』
障壁に頭から突っ込んだ獣が、苦悶と驚きの声を上げた。獣の突進を受け止めても、光の壁は傷ひとつ付いていない。
頭を強く打った獣はよろけて、たたらを踏んだ。目眩を起こしているらしく、さかんに頭を振っている。
「みんな、逃げて! 今なら雪が凍っているから、ソリで滑って行ける!」
エリンが子どもたちに声をかけると、皆はっとして彼女を見た。
フェイリムが言う。
「わ、わかった! 早く村まで行って、大人たちに避難してって言わないと!」
「私がソリを押してあげる。みんな、乗って」
エリンがひっくり返ったソリの方へ行くと、光の壁はすっと消えた。
起こしたソリに子どもたちが乗る。
「さあ、行くよ」
エリンはソリの後ろに手をかけて、力いっぱい押した。腕の力だけではない、今までは無意識に使っていた不可視の力をも可能な限り込めて。
胸のペンダントが淡く光る。
ソリは強く押されて、風に乗る船のように滑り始めた。
――子どもたちだけを乗せて、エリンを置いて。
「エリンおねえちゃん!」
ティララが泣きながら叫んでいる。フェイリムとアルバも口々にエリンの名を呼んでいる。
けれど勢いよく滑るソリはすぐに遠ざかって、声は聞こえなくなった。
「これで、良かったの」
白い獣を見ながら、彼女は言った。
「私は山の方へ、村の反対の方へ、できるだけ遠くに逃げないとね。お前が村に行かずに済むように」
獣は徐々に目眩から立ち直って、低いうめき声を漏らしている。
「さあ、追いかけっこをしよう。お前が追いついたら、私を食べていいよ」
ペンダントを握り締めて、エリンは走り出した。
目指すは、遠く。できるだけ遠く。村から離れた場所へ。
エリンは歯を食いしばりながら、山を目指した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます