第4話 孤独の山
白い獣がやって来たと思われる方向には、氷の道が続いていた。獣は雪を凍らせながら、ずっと歩いてきたようだった。
エリンは凍った雪の上を走っていく。木立の間を縫うように、凍りついた下草を踏みながら。
途中で時々振り向いて、獣に雪玉を投げてやるもの忘れない。
獣の動きは思ったよりもずっと鈍かった。頭を打ったせいか、はたまた巨体のあまり氷の道ですら足が沈むのか。
おかげでエリンは、長い時間を費やして山の方へと走って行けた。
「寒い……」
どのくらいそうして走っていただろう。かじかんだ指に息を吐いて、エリンは呟いた。
無我夢中で飛び出して来たものだから、防寒着を着るのを忘れてしまった。
かろうじてブーツは履いているものの、手袋すらない。手足が先から冷えてくる。
真紅のペンダントは徐々に熱と光を失い、元の青に戻りつつあった。
山の斜面で振り返れば、少し後ろに獣の姿。さらにずっと向こう、遠く下の方に生まれ育った村が見える。
冬の陽は落ちるのが早い。すでに夕焼けを通り過ぎ、夜の帳が下り始めている。薄暮の中では、村人の動きまでは見えなかった。ただ、主だった建物が影のように沈んでいるだけだ。
(子どもたちは、村までちゃんと帰り着いたかしら)
エリンは思う。
自分が囮になって、後悔していない。あの時は他に方法がなかった。
けれどそのせいで、彼女は一人ぼっちになっていた。あんなに恐れていた孤独に、自ら飛び込んでしまった。
悔いてはおらずとも、寂しさが胸を貫いた。
――クルシイ、クルシイ。ヒモジイ。
獣の思念が聞こえる。夕闇のおかげか、「マブシイ」とは言わなくなった。
「ねえ、お前。お前ももしかして、寂しいの?」
答えがないのを承知で、エリンは獣に問いかける。
獣はずっと、苦しみを訴えていた。ひもじさと、苦しさと、まぶしさとを。
エリンは最初こそ恐ろしかったが、今は少し印象が変わった。
苦しみ続ける獣は、救けを求めているように思えてきたのだ。
もしこの化け物が孤独を感じていて、エリンを食べることでそれが癒やされるなら。
食べられても、いいかもしれない……。
心の隅でそう思いながら、獣を眺める。
獣の赤い瞳は、昼間よりも少しだけ落ち着いて見えた。
それは、夕闇に包まれて眩しさが減ったせいかもしれないし、エリンの同情を感じ取ったせいかもしれない。
「お前は、どこから来たの? そんなに大きな体で、今までどこに住んでいたの? 仲間はいないの……?」
――クルシイ。マブシクナッテ、クルシカッタ。
獣が答えのようにも取れる思念を返してきたので、エリンはたいそう驚いた。
「帰る家はある? 私で良ければ、一緒に行くよ」
――ワカラナイ。デモ、帰リタイ。クルシイ。
拙いながらも会話が成り立っている。
エリンはどきどきしながら、言葉を重ねた。
「ねえ、帰ろう。人間を食べても、おいしくないよ。食べるなら山の獣にしよう。お前は猪のようだから、ドングリや木の実もいいかもね。
……そして、家に帰ろう。安心できる場所に。私がついていってあげるから」
獣は答えない。ただじっとエリンを見つめていた。両の瞳から敵意は薄れて、唯唯悲しみと痛みだけが見える。
エリンは一歩、二歩と歩み寄った。恐る恐る近づいても、獣は黙して動かない。彫像のように雪像のように、じっとしている。
エリンはそっと手を伸ばして、獣の白い毛皮に触った。前足のひづめの上の辺り、半ば凍りついている場所を。
それでも獣は動かず、されるがままになっていた。
――その時。
山の稜線の向こうから、白い月が顔を出した。満月に近い月は大きくて、意外なほどの強さで雪山を照らす。
月光が一面の雪景色にきらきらと反射して、夕闇を払うほどだった。
『ギャアアァァァァアァァッ――!!』
獣が悲痛な叫びを上げる。明らかに苦痛の声だった。
――マブシイ! マブシイ! 痛イ、クルシイ……!!
再び狂気に染まった瞳、エリンは動けない。振り上げられた獣の牙が、彼女の細い体を跳ね上げてなぎ倒した。
エリンは牙の一撃を受けて吹き飛び、雪の上を転がる。山の樹木の幹にぶつかって、ようやく止まった。
衝撃は受けたものの、怪我はしていない。
見ればペンダントが再び真紅に染まって、障壁が小さな盾のように彼女を護っていた。
「ねえ、お前! 落ち着いて!」
エリンは必死に呼びかけるが、獣はもう答えなかった。苦痛にまみれた赤い瞳が彼女をとらえる。口の端からは泡がこぼれて、雪の上に染みを作る。完全に正気を失っている。
(駄目だ。もう話を聞いてくれない)
エリンはペンダントを握りしめた。光壁の守りで、どこまでしのげるだろう。
薄着で雪山を走ったせいで、エリンの体は冷え切っている。慣れない力を使ったせいか、体がひどく重かった。体力はもう限界だった。
もういいのでは……、とエリンは思う。
村との距離は十分に稼いだ。子どもたちはちゃんと帰り着いただろう。そして大人たちに獣の警告をして、避難を始めただろう。
であれば、彼女の役目は終わった。このまま食われたとて何の問題もない。
諦めがゆるゆると心に入り込んでくる。立ち上がる力を奪ってくる。
「……でも!」
エリンは叫んだ。
一度は食われてもいいとさえ思った、白い獣を正面から見据えながら。諦めを振り払い、もう一度立ち上がって。
「お前を家に帰してやるまで、私は死ねない! お前も、私も、どこから来たのかさえ分からないままなんて、嫌だ! どうして他と違うのか、どうして不思議な力を使うのか、私は知りたいの……!」
獣が再び雪を凍らせ、エリンに向かって突進を始めた。
エリンはペンダントを握って、もう一度光の壁を展開しようとする。
二度の経験で、発動のやり方はなんとなく分かっていた。だからきっと、大丈夫。
と、その時。
急に――本当に急に、何の前触れもなく現れた誰かの腕が、エリンを抱きかかえた。防寒具を着た状態でも分かる華奢な腕と、ふわりと香る香水の匂い。
次の瞬間、エリンは木の枝の上に立っていた。樹齢を経た杉の木の太い枝だった。
右斜め前方には、例の獣の姿。エリンの姿が消えても突進をゆるめず、木の幹に激突して大きな地響きを立てる。ぶつかった太い木が根元から折れていた。
(瞬間移動した……!?)
エリンは驚きを込めて樹上から獣を見た。
「よく頑張ったわね。もう大丈夫よ」
耳元で女の声がする。上半身をひねって振り返れば、二十歳前後の若い女性が微笑んでいる。毛皮の帽子から美しい金の髪がこぼれていた。
彼女は髪のひとふさを耳にかけると、虚空へ向かって呼びかけた。
「こちら、ベルタ。猪の白獣を発見、行方不明の少女は保護したわ」
『了解しました』
はっきりと心の声が聞こえて、エリンは飛び上がりそうになった。
心の声は今までに何度も聞いたが、ここまで明瞭なのものは初めてだ。
ベルタと名乗った女は、エリンの様子に片眉を上げる。
「あら、ラーシュの精神感応<テレパシー>が聞こえた? あなた、やっぱり適性があるのね」
言って、ベルタはエリンを抱いていた腕を離す。
「あなたはここにいてね。木から落ちないように気をつけて。大丈夫、何も心配はいらない。すぐ済むわ」
エリンが木の幹につかまったのを見て、ベルタは微笑み――
刹那、姿が掻き消えた。
エリンは息を呑む。
けれど同時に、彼女が違う場所に移動したのだと理解した。
その証拠に、ラーシュと呼ばれた男性の声との会話は続いている。
『ご苦労さまです。次の作戦遂行を』
『シグルド、目標物の五ヤード(約五メートル弱)上空に転送でいいかしら?』
『十ヤードで頼む』
新しい男性の声が割り込んだ。
『子どもたちに聞いた話じゃ、かなりのデカブツじゃないか。勢いをつけて一気に片付けるよ』
『そうね。実際見たけどよく育った白獣だったわ。あの女の子、よくもまあ無事だったと驚いたもの』
『ベルタ姉、俺、その子めっちゃ気になる。後で紹介してよ』
また別の少年の声が交じった。
『皆さん、おしゃべりは後にしましょう。先に危険を排除しないと』
『はいはい。ラーシュは真面目よねえ。……行くわよ』
『ああ!』
力強い声とともに、空気が揺れた。
獣の頭上、夜空の一部が不自然に歪む。その歪みの中から滑り出るように、一人の男性が現れた。灰色の髪が夜の闇の中に、ぼんやりと浮かび上がっている。
彼の足元は何もない。あっという間に落下を始めた。
風を空を切る気配を感じて、獣が空を仰ぎ見る。
十ヤードの距離を自由落下した男は、右手を獣に向かってかざした。
エリンにははっきりと視(み)えた。
男の手から不可視の力が黒い刃のように生み出され、獣の頭部を貫くのを。
黒刃は何の抵抗もなく獣の頭蓋を割り、脳を切り裂いて顎下まで達した。
返す刀で胸部を切断。肋骨を砕き、心臓を穿(うが)ち貫いた。
全てが一瞬の出来事、いっそ鮮やかと言っていいほどの速度だった。
頭部と胸部とを切り離された獣が、どうと音を立てて雪に倒れ込む。すでに絶命している。悲鳴を上げる暇すらなかった。
みるみるうちに血が流れ出て、辺り一面が赤く染まった。
それが、白い巨獣の最期だった。
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