第2話 昼下がりの事件
暖炉に火が入ったので、エリンはスープの鍋をかけた。
食卓に人数分の食器を出して、整える。
パンかごから堅パンを取り出して、薄く切ってお皿に乗せた。
火が強まり、部屋が徐々に暖まってくる頃、食堂のドアが開いた。
「おはようございます、司祭様」
「おはよう、エリン。今日も早いね」
司祭は微笑んで挨拶を返した。今年で五十歳になる司祭は温厚な性格で、エリンに心を配ってくれる。村人たちからの信頼も厚い人だ。
けれどもエリンは知っていた。
彼はエリンの『力』に薄々気づいている。気づかないふりをしながら、どう扱っていいものか判断できないでいる。迷いながら、心のどこかで恐れ嫌悪している……。
だから、エリンと司祭の間には距離があった。決して埋まらない距離が。
「ティララと、男の子たちを起こしてきますね」
エリンは言って、食堂を出た。彼と二人きりでいたくなかった。
女子部屋でティララを起こして、次に男子部屋へ。二人の男の子はやんちゃ盛りで、寝相もめちゃくちゃだ。枕はベッドから落ちかけて、足と頭の位置が逆になっている。
「ほら、起きて! 朝だよ」
カーテンを開けて声掛けをすれば、男の子二人分、フェイリムとアルバの寝ぼけまなこが見えた。
年上のフェイリムは七歳。アルバは五歳である。
「ねむーいー。もうちょっとだけ」
「だめ。もう司祭様も起きてるらっしゃるんだから。早く起きて、食堂まで来なさい!」
「むにゃ……」
もう、とエリンはため息をつくが、その表情は明るい。
手のかかる子たちだけれど、エリンは彼らが好きだった。もちろんティララもだ。
「早くしないと、朝ごはんがなくなっちゃうよ。二人の分まで私が食べちゃうよ?」
「エリンねえちゃんは、そんなことしないもん」
「ねー」
「いいから起きる!」
毛布を引き剥がすと、男の子たちは寒さにくしゃみをした。
少し目が覚めたところで手を引っ張って起こす。
「エリンおねえちゃん、アルバとフェイリム、まだ起きないの? ねぼすけだね」
一足先に起きて身支度をしたティララが、戸口に顔を出した。
「今、起きたとこ!」
「ねぼすけじゃねーし」
彼らは口々に抗議をした。年上のエリンに甘えるのはいいが、同年代のティララに馬鹿にされるのは嫌であるらしい。
冬の寒さを吹き飛ばすような騒々しさの中で、エリンは今日という日常の始まりを感じていた。
「エリン。今日の予定は何だったかな?」
「サフィおばさんの家で集まって、女性たちみなで編み物をしてきます」
朝食後、片付けをしながら、エリンは司祭の問いに答える。
司祭は微笑んだ。
「そうだったね。エリンはずいぶん編み物が上達したと、サフィから聞いている」
――この子の身元さえ確かであれば、良い花嫁になれただろうに――
肉体の声と精神の声が同時に聞こえて、エリンは思わず目を伏せた。
時々、こういうことがある。望んでいないにも関わらず、その人の本音が聞こえてしまうのだ。
「エリンおねえちゃん、どうしたの?」
片付けを手伝っていたティララが、心配そうに覗き込んできた。
エリンは笑顔を作って誤魔化した。心を切り離して笑ってみせるのは、エリンの得意とすることだった。
「なんでもないよ。編み物頑張ろうって思っただけ」
「うん」
ティララの肩をぽんぽんと叩いてやると、幼子はようやく安心したようだった。
「おれたちは今日、ソリ遊びをするよ!」
フェイリムが言った。
「スキーをしたいのに、もっと大きくならないと駄目だって言われた」
もう一人の子、アルバは不満そうにほおをふくらませている。
エリンはくすくす笑いながら答える。
「スキーは道具がいるし、山の方まで行かないといけないもの。もう少し大きくなってからね」
その点、ソリならばどこでもできる。
なにせ積雪がすごくて、建物の一階部分は雪に埋まってしまうくらいなのだ。二階建ての民家の屋根は、ソリ遊びにちょうどいい斜面になるのだった。
「それでは、今日という日をまた無事に過ごせますように。主神オーディンの加護を祈りましょう」
すっかり片付いた食卓にもう一度集まって、オーディンの名を唱えながらお祈りをする。
そうして一日が始まった。
サフィの家には村の女性たちが集まっている。
エリンも持参した毛糸と編み針を持って、部屋の隅の床に座った。
椅子やソファはもう人でいっぱいだったし、絨毯が敷かれた場所にも他の人がいる。
むき出しの床に座ったエリンを見ても、誰も場所を譲ってはくれない。お茶を出してもらうこともない。
いつものことなので、エリンは気にしていなかった。
むしろ嫌味を言われて追い出されないだけ、ほっとしていた。
そうして午前中をサフィの家で編み物に費やし、昼に差し掛かった時のことだった。
突然――地響きとともに地面が揺れた。
「え? 何?」
「地震かしら。それともまさか、雪崩?」
集まって編み物をしていた女たちが、ざわざわとざわめいた。
地響きは二度、三度と繰り返し、収まるどころかより勢いを増していく。
オォォォオオォ――!!
地響きの合間、意外なほどの近さで獣の咆哮が響いた。
ぞっとするような憎しみの籠もった叫びだった。誰もが凍りついたように身をこわばらせる。
――なんだ、あれ! 獣!?
――猪?
――猪なわけないだろ! でかすぎる!
エリンの頭の中に声が響く。ここはにいない、でも聞き慣れた声。ティララたちの声だ。
すぐ近くにいる女たちのざわめきが遠くなり、子どもたちの声が近くなる。
――こっちに来る! 逃げろ!
――アルバ、早く!
――雪に足が、はまっちゃったよぉ!
――くそ、分かった、今助けるから! ティララは先に逃げてろ!
同時に脳裏に映像<ヴィジョン>が浮かぶ。
雪にはまって泣いているアルバ、なんとか助けようとしているフェイリムとティララ。打ち捨てられてひっくり返ったソリ。
そして、彼らに迫る大きな影……。
「ティララ! フェイリム、アルバ!」
エリンは叫んだ。
奇異の目で見る女たちを気にする余裕すらなく、家を飛び出した。
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