【完結】終わりの大地のエリン
灰猫さんきち
雪の章
第一章 日常の終わり
第1話 冬の朝
古い記憶の底で、小さな子どもが泣いている。
寂しい、寂しいと泣いている。
遠ざかる背中に向かって、届かない手を伸ばして。
――行かないで、置いていかないで。
――わたしをひとりにしないで。
やがて背中が闇の向こうに消えてしまっても、彼女は泣き続けている。
――ひとりぼっちは嫌だ。ひとりは寂しい。置いていかないで……。
遠い記憶は曖昧で、あの背中たちが誰なのかも分からない。
辺りには雪が降っている。舞い散る雪のかけらが、白く光る闇夜を覆い隠してしまう。
雪を踏む足音すら包み込み、消し去ってしまう。
何もかもを優しく残酷に包んで、かすかな思い出がこぼれていく。
流れた涙は凍って、肌に冷たい痕を残す。
残るのは冷え切った体と、静寂の時間だけだった。
カーテンの隙間から漏れる光が目に入って、エリンは目を覚ました。
ついさっきまで悲しい夢を見ていた気がするけれど、よく思い出せない。
「まあ、いつものことかな」
そんな風に呟いて、身を起こす。
胸元で、肌身離さず身につけている青いペンダントが揺れた。エリンの瞳と同じ色をした、丸い石。
狭いベッドで一緒に眠っていたティララが、小さな体を身じろぎさせた。
「エリンおねえちゃん……もう、朝? ねむいよぉ」
寝ぼけた様子に、エリンは笑いかける。
「ティララはもうちょっと寝ていていいよ。私、先に用意してくるね」
ティララに毛布をかけ直してやって、エリンは床に足をつけた。石造りの床は冷え切ってひやりと冷たい。
靴をはいて立ち上がる。カーテンを少しだけ開ければ、半ば雪に埋まった窓の向こう側に、一面の雪景色が広がっていた。
まだ朝日は上っていない。先程の光は陽光ではなく、雪の反射……雪明かりだったのだ。
今は冬。
ミッドガルドの国の中でも北の辺境に位置するこの村は、冬になれば雪に閉ざされる。
全てが雪に埋もれてしまう冬が、エリンはあまり好きではなかった。
理由はよく分からない。
もちろん冬は寒いとか、雪で動きを制限されるとか、そういった理由で嫌う人は多いけれど。
エリンは澄み渡った冬の空気や、淡い色の空と太陽は嫌いではなかった。それでも冬は苦手と感じる。
茶色の髪を手早く三つ編みにして、夜着から着古したワンピースに着替える。
ワンピースは冬用の厚手のものだが、ところどころが擦り切れている。継ぎを当てるのもそろそろ限界だけれど、代わりの服は持っていない。
質素な木製のドアを開けて部屋を出ると、続く廊下もひんやりとした空気で満たされていた。
孤児院を兼ねる教会は、あまり裕福ではない。暖房は必要最低限で節約されているのだ。
エリンは廊下を歩いて居間兼食堂へ行く。
早朝、まだ誰もいない室内は薄暗く、寒かった。室内でも息が白い。
暖炉の前に膝をついて灰を掻いたが、熾火は消えてしまっていた。
「困ったな……」
こうなると、もう一度火を起こすまで時間がかかる。
諦めて火打ち石と細い薪を取り出して、地道に火を付けようとした、その時。
ボッ――
片手に持った細薪が、勢いよく炎を吹いた。
まるで松明のように燃え盛る炎を見て、エリンの表情は硬い。
――また、やってしまった。誰もいない時で良かった。司祭様に見られたら、何と言われるか。
そう思って、苦い思いを無理矢理に飲み込んだ。
もう片方の手で、青いペンダントを握り締めながら。
エリンは孤児だ。
幼い頃、この教会の前で座り込んでいたところを、司祭が見つけて保護してくれた。
その時の年頃は四歳か五歳。物心はついていたはずなのに、エリンはそれ以前の一切を覚えていない。
辺境の地の小さい村で、エリンはずっと異質な子だった。
ティララや他の孤児たちは、この村の縁者である。親が事故や病で死んでしまって、引き取られた子ばかりだ。
けれどもエリンは、親の出自どころか、どこから来たのかすら分からない。
幼児が一人で外から来るわけもない。この村は山奥にあって、隣町は徒歩で何日もかかる距離にある。誰か大人に連れられてきたのは間違いないが、誰も親の姿を見ていないのだ。
小さな村だから、来訪者があればすぐに分かるはずなのに。
エリンは自分を部外者だと理解していた。だから十三歳になる今日まで、必死で周囲に溶け込もうとしてきた。
しかし彼女の異質さは、出自が不明なだけではなかった。
ふとした時に発動される、人ならぬ力。
彼女の無意識の願いに応えるように、それらは発揮された。
先程のような炎。
手を滑らせて食器を落とした時、何故か手元に戻ってくる。
高い木の枝に実る木の実を見上げていたら、ぱらぱらと落ちてくる。
ナイフで指を切ってしまったのに、翌日には傷が消えている。
それらの力の発現を、エリンは可能な限り隠した。
異質で気味の悪い子だと、周囲から思われていると知っていた。はっきりと他人の心の声が聞こえた時もあった。
彼女は率先して働き、小さな子の面倒をよく見て、役に立つ自分をアピールしてきた。
そうでなければ、「また」捨てられそうで怖かった。ひとりぼっちになってしまいそうで、恐ろしかった。
幸い、ティララや他の年下の子たちはエリンに懐いている。「お姉ちゃん」と呼んで、エリンを必要としてくれている。
だから彼女は、子どもたちを目一杯可愛がった。
そうしていれば、子どもたちは慕ってくれて。
大人たちも、働き者で面倒見の良い子だと思ってくれるから。
そうしていればきっと、置いていかれることはないから。
そう信じて、エリンは今日も一日を始める。
何も変わらない日。
けれども実は、誰も気づかないうちに変化はすぐそこまで来ていたのだ。
彼女はすぐに、それを思い知ることとなる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます