鉄と砂の章
第五章 ミッドガルドへ
第32話 扉の外
再び暗闇が部屋に満ちた。
それでもしばらく、残されたエインヘリヤルたちは動こうとしなかった。
「部屋、出ようよ。シグ兄の召し上げをお祝いしなきゃ」
長い沈黙を破ったのは、セティの声。言葉に反して沈痛な響きを含む声音だった。
エリンは無言のまま重い扉に手をかける。腕力だけでは到底開かない扉だったが、今の彼女の能力があれば難なく動かせる。
両開きの扉の隙間から、廊下の光が差し込んで――
「え?」
エリンは声を上げた。
扉の先は第八小隊の本拠地の建物のはずだったのに、目の前には冬の森が広がっていた。
雪深い大地と、雪に埋もれた木々。針葉樹が多くて森は高く暗い。エリンの故郷の村でよく見た、最北端の風景だった。
「何、これ? 瞬間移動<テレポーテーション>?」
セティが言ってベルタを見るが、彼女は首を振る。何もしていないわ、と言っている。
「フレキ! 来て!」
ただ事ではない空気を感じて、エリンが狼の名を呼んだ。
『現在の空間座標を検索。検索中、……エラー。座標の算定が不可能にて、引き寄せ<アポーツ>の発動をキャンセルします』
「ふむ。もうそこまで、力を使いこなせるようになったか」
不意に男性の声がした。
見れば前方、森の暗闇に紛れるように誰かが立っている。深緑のマントに白い獣の仮面を身につけた人物が、年老いた杉の木の幹に背を預けていた。
彼は仮面の目線を地面に向けたまま続けた。
「ところで、さっさとこちらまで来てくれないか。その通信装置の間近で空間を繋ぐのは、それなりにリスキーなんだ。ヴァルキリーに察知されたくない」
「……あいつ、怪しすぎでしょ。どうする?」
ベルタがひそひそと話しかけてきた。
「ヴァルキリー様を呼び捨てにするなど、不埒の輩です。話を聞く必要はありません」
と、ラーシュ。
「あいつ、一体何なんだ。透視<クレアボヤンス>で仮面の下が見えないよ。こんなのまるで、ユグドラシルやヴァルキリー様みたい」
セティの言葉にエリンははっとした。
「私は行くわ。あの人、前にも会ったことがあるの。たぶん、北の村に来る前の私を知っている」
エリンが一歩を踏み出した。足元で、さく、と雪を踏む音がする。
「待って、エリン。俺も行くよ」
彼女を追ってセティも飛び出した。
「こら! 二人とも、待ちなさい。そんな怪しい奴にほいほいついていってどうするの!」
「ベルタ! 貴女もたいがいですよ!」
ベルタとラーシュも結局、年少組を追ってやって来た。
彼ら全員が扉を通れば、ブンと低い音がする。エリンが振り返ると、扉は跡形もなく消えていた。冬の森がどこまでも続いているだけである。
「あなたは一体、誰なんですか」
仮面の人物の手前で足を止めて、エリンが問いかける。相手はひょいと肩をすくめた。
「私の自己紹介の前に、用件を伝えよう。エリン、お前はすぐに南へ向かえ。ムスペルヘイムの連中に話を通しておいた。彼らなら、お前を迎え入れてくれるだろう」
「ムスペルヘイム!?」
ラーシュが声を上げる。
「大地の悪魔の国ではないですか。悪魔どもと繋がりがあるとは、貴方も主神オーディンに仇なす者!」
大地の悪魔は、教会の聖典でオーディンと対立する者と言われている。白獣の病も彼らによるものとされ、あらゆる災厄の根源と伝えられていた。
仮面の人物はため息をついた。
「悪魔ときたか。まったくアースガルドの奴らは、敵のでっち上げばかり得意で困る。
エリン、心配しなくていい。ムスペルヘイムは、ただの人間の国だ。五百年ほど前にオーディンのくびきから脱して、独立した。そのために悪魔呼ばわりされているだけの、実のところは気のいい奴らの集まりだよ」
「貴様、アースガルドの神々に対して何という言い草……」
ラーシュがさらに言い募るが。
「うるさいぞ、精神感応者<テレパシスト>。今はエリンと話をしている。ちょっと黙ってろ」
仮面の下の視線がラーシュを見た。すると一瞬、灰色のモヤが彼を覆う。
「……!? ……!」
ラーシュが口をぱくぱくさせているが、声が出ない。精神感応<テレパシー>も試みているようだが、何も聞こえず届かない。
「妨害能力波<ジャミング>? でも、声まで出ないなんて」
エリンがペンダントを握った。
『術式分析。チャンネルbjarkanでの妨害能力波<ジャミング>を検知しました。および、空気振動への干渉を検知。持続時間は短時間と推測します』
「そのとおり。空気の振動を少しいじれば、声が聞こえなくなる。まったくお前は優秀だよ、エリン」
仮面の人物が木の幹から背を離して、エリンに歩み寄る。彼女は身をこわばらせた。
「……よくここまで、頑張ったな。私はお前を巻き込みたくなくて、あの北の村に置き去りにした。
あの時は、それでいいと思っていたが。間違いだったかもしれないと、最近は感じていた」
彼が手を伸ばして、エリンの頭を撫でた。ひどく遠慮がちな、そっと触れるような手付きだった。
「あなたは……」
その手の感触で、エリンは確信する。この人はエリンにペンダントをかけてくれた人だ。
あの頃のような大きな体格差はもうない。エリンの背が伸びたからだ。
「大きくなったね、エリン。私の判断が甘かったせいで、いらぬ苦労をかけてしまった。だがこれからは、きちんと手助けをしよう。
まずはムスペルヘイムだ。私と一緒に来てくれ」
「ちょっと待った!」
エリンの頭の手を乱暴に払って、セティが前に出る。
「あんた、何なの? 俺らのエリンに気安く触れないでくれる? もしかしてエリンの親かよ。それなら、エリンがどれだけ親を探してるか知ってたか? 勝手に置き去りにされて、エリンがどれだけ悲しんだか知ってるのかよ!」
セティの剣幕に押されて、仮面の人物は一歩下がった。
エリンはセティの袖を引く。
「セティ、いいから」
「よくないよ、エリン! 何年もほったらかして平気な奴だもん、はっきり言ってやらなきゃ!」
「そうね。親だからって、子供を好きに扱っていいなんてとんだ思い上がりだわ。まるでうちの父親みたい。あぁ、やだやだ」
ベルタも前に出た。
セティがさらに言い立てる。
「だいたいあんた、どうなってんだ。せめて名乗れよ! そんでもって、そのヘンテコな仮面を外して、素顔でちゃんとエリンと話し合え!」
「…………」
仮面の人物はセティとベルタを交互に見た。二人ともエリンを守るように前に立ちふさがっている。
「……ああ、そうだな。お前たちの言うとおりだ」
ため息とも苦笑ともつかない空気が流れる。
「先に名乗るべきだった。――私の名は、ロキ。アースガルドを追われてさまよう、愚か者だよ」
「悪神ロキ……!?」
その名前に、一同は息を呑んだ。
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