第33話 ロキ
悪神ロキは、オーディン教会においてアース神族の裏切り者として伝えられている。
オーディンの寛大な心を裏切ってアースガルドに害悪をもたらし、その後は人間界やムスペルヘイムを行き来して悪を為していると。
「まあ、そのロキで間違いない。裏切ったのは本当だ。オーディンを寛大とは思わんし、害悪を為したつもりもないが」
ロキはどこか疲れた様子で言った。
「あなたは私の……お父さんなの?」
エリンの問いに、ロキははっきりと首を横に振った。
「父ではない。親代わりと言える立場ではあるが、本当の意味で父親ではないよ」
「…………」
エリンはそっと指を握り締めた。
そんなエリンに気づかわしげな視線を送って、ベルタが言う。
「あなたが本当に悪神ロキならば、オーディン様とヴァルキリー様に敵対しているのね?」
先程彼は、『ヴァルキリーに察知されたくない』と言った。
ロキはうなずく。
「そうだ。私はアースガルドから追われる身だ。下手に姿を現せば、ヴァルキリーが追ってくるだろう。だから隠れながら動くしかなかった。
今回の接触も、もう少し早くやれば良かったんだが。別件が立て込んでいて、遅れてしまった。おかげで魔剣グラムの使い手を、オーディンに取られてしまったな」
「魔剣グラム……シグルドさんですね」
「あの念動力能力者<サイキック>は、そんな名だったか。こうなった以上、彼はもう諦めてくれ」
「諦めるとは?」
ベルタが慎重に言う。ラーシュも黙しながら注視している。
「言葉のとおりだよ。魔剣グラムの発現――エリンの助けを借りてとはいえ、第三段階に達する能力を発揮したんだ。彼のバナジスライトは、さぞ良質に育っているだろう。オーディンが舌なめずりして『収穫』するだろうよ」
誰もが息を呑んで言葉を発せなかった。
薄暗い冬の森の中に、空白のような沈黙が長く続く。
ようやく口を開いたのは、エリンだった。
「バナジスライト? シグルドさんは人間です。白獣じゃありません。それに『収穫』とは、何のことですか……?」
「なんだ? 気づいていなかったのか」
ロキは意外そうに言った。
「逆に聞くが、どうしてバナジスライトが獣だけのものだと思った? 獣だろうが人だろうが、ユミル・ウィルスに感染すれば、一定の確率で能力に目覚める。そうなれば脳にバナジスライトが蓄積される。人間はただ、獣よりも病の進行がゆっくりで、能力が強く育つだけ。
収穫も文字どおりだよ。頭蓋を割って脳からバナジスライトを取り出す。エインヘリヤルが白獣に対して行っているのと同じ行為だ」
「そ、そんな……。じゃあ、アースガルドの召し上げは、つまり……」
ベルタがよろけて、ラーシュに支えられた。セティも顔色を蒼白にしている。
ロキは首をかしげて、それから合点がいったとばかりにうなずいた。
「お前たちエインヘリヤルには、思考統制プログラムがかなり強く入っているな。『神の言葉』に疑問を抱かないように、たとえ余計なものを見聞きしても信じないように。オーディンめ、この星の人間を全く信用していないと見える。全く彼女は、いつまでも変わらない」
「オーディン……は、何故、あの宝石を集めているんですか」
エリンは前に出て尋ねた。かねてからの疑問である。
「バナジスライトは、生命エネルギーの結晶だ。ユミル・ウィルスを介して大気中のエーテルを吸収し、体内に蓄積する。あれは光を閉じ込める、天然のフォトニック結晶体でもある。
そこの透視能力者<クレアボヤンサー>が持っている程度の質では、補助的に使うのがせいぜいだが」
セティがぎくりと荷物を押さえた。白獣のバナジスライトがいくつも入っている小箱が、そこにある。
ロキは続ける。
「人間の能力者であれば、第二段階であっても十分にエネルギー源として使える。ましてや第三段階に達すれば、エネルギー量は飛躍的に増大するだろう。
もっとも今回に限っては、エネルギー云々よりもエリンを知る者がオーディンの手に渡ったのが痛い。エリンの存在が知られてしまった。
アースガルドは全力でお前を追ってくるだろう。だからまずはムスペルヘイムへ逃げて、その後のことはあの土地に着いてから決めるとしよう」
ロキはエリンに手を差し出した。
「さあ、エリン。行こう。これからは私がついている。もう寂しい思いはさせない――」
エリンはその手を見た。かつて彼女にペンダントをかけてくれた手。そして冬の夜に、エリンを置き去りにした人。以前は心から追い求めていた、エリンの出自に最も近い人の手を。
彼女は目を上げて正面からロキを見つめる。そしてきっぱりと言った。
「嫌です。あなたとは行かない」
「エリン……? 何故だ」
「あなたの話が本当なら、シグルドさんが殺されてしまう。私のせいで、私が魔剣を使うように仕向けたから。
シグルドさんは、強い力は責任が伴うと言っていました。ならば私が投げ出すわけにはいかない。責任を取らないといけない。……シグルドさんを助けに行きます」
「無茶を言うな。アースガルドは難攻不落、侵入すら困難な要塞だ。お前が単身で向かったところで、捕らえられるのがオチだよ」
「単身じゃない。セティと、ベルタさんと、ラーシュさんが一緒です」
エリンは振り返った。ここまでの数ヶ月を一緒に旅した彼らを。
「もちろんだよ! シグ兄が殺されるなんて、絶対嫌だもの!」
セティはすぐに答えた。
「私は、分からない……。今まで敬愛してきたオーディン様が、そんなむごいことをするなんて、とても信じられない」
ベルタはうつむいた。
そんな彼女のすぐ横に立って、セティが言う。
「あのね、ベルタ姉。あいつに言われて、みんなの頭を透視してみたんだ。
そしたら……、バナジスライトが本当にあったよ。白獣のなんかよりも、ずっと大きくてまぶしく光り輝く結晶が。どうして今まで視ようと考えもしなかったのか、不思議なくらい」
「そんな。嘘、でしょ……」
「思考統制の効果だろう」
呟くようなベルタに対し、ロキが言った。
「オーディンにとって都合の悪い事実は、そもそも考えに上らないようにコントロールする。
透視能力者<クレアボヤンサー>よ、セティと言ったか。お前は過去、ヴァルキリーと直接接触したことがあるな?」
「うん。能力に目覚めた時、ヴァルキリー様に鑑定してもらった。ヴァルキリー様の精神感応<テレパシー>で色々と頭の中身を触られたの、覚えてるよ。エインヘリヤルはみんなそうだ。最初に本部で登録をする時に、ヴァルキリー様に挨拶する決まりだから」
「その時に統制プログラムを受けた。……が、エリンと接するうちに強制力が緩んだようだ。ヴァルキリーごときとエリンの力では、大きな差があるのでな」
「そんなの、何でもいい。俺はエリンと一緒に、シグ兄を助けに行く!」
セティは叫ぶように言って、エリンの手を握り締めた。
「ベルタ姉とラーシュ兄が来なくても、俺は行くよ。エリンを一人にするもんか。そんで、シグ兄を見捨てるもんか!」
「セティ……」
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