第58話 去りゆくもの
エリンの視界が赤く染まる。同時に右肩に灼熱を感じた。力がどんどん抜けていって、グングニルを持つのが困難になっていく。
やがて腕を伝い落ちた血がぬめって、槍を取り落とした。
からん、と乾いた音を立てた後、偽の神槍は解けて消える。
フレキが泣き出しそうな表情で、エリンを振り返っている。
対するオーディンは、
血に染まった真なる神槍を構えて、エリンを見据えている。
と。
オーディンの体が、ぐらりとかしいだ。
まるでスローモーションのように、
エリンはセティの手を借りて、オーディンに歩み寄った。
血溜まりに倒れ伏した彼女は、わずかに睫毛を震わせて――
それっきり、動かなくなった。
命が途絶えたのだと、エリンにははっきりと感じられた。
「勝った、のか?」
呆然としたままで、セティが言った。激戦に次ぐ激戦を目の当たりにした後では、実感がわかないのだろう。
「うん。私が、勝ったよ。セティとフレキと、ロキさんと。他の皆のおかげで」
エリンはそう言って、オーディンの血溜まりに膝をついた。
「エリン?」
「セティ、あのね。この人、私だったの。昔の寂しがり屋で、置いていかれるのが怖くて、泣いてばっかりだった私……」
少し開いていた紅の目を閉じてやる。それからゆっくり長い銀の髪を撫でた。
「それだけ、辛い目に遭った人だったの。……だからって、とても許せるものじゃないけど。
でも私、この人の寂しい心だけは受け止めてあげたい。もう一人にさせたくない。誰も置いていかないと、教えてあげたい――」
「優しいな、エリンは」
急に後ろから声がして、エリンとセティは驚いた。
「ロキさん!」
「ロキのおっさん!」
ロキの衣服は血まみれで、体にもかなりのダメージを負っているようだ。
そんな姿のまま、彼は言う。
「オーディンを、止めてくれてありがとう」
「うん」
今のエリンであれば、その言葉の意味が分かる。ロキは誰よりもオーディンを愛していた。オーディンの心を通じて、そう感じた。
愛していたからこそ止めたくて、エリンというクローンを造った。
「私は、お前を兵器として使うつもりで造った。けれど成長するにつれて、彼女の面影が濃くなるにつれて……迷いが出た。
一度迷えば、すぐに答えは出たよ。こんな運命をお前に背負わせようとした自分が、ほとほと嫌になった。お前に合わせる顔がなくて、あの北の村へ置き去りにしてしまった。今思えば、ただの責任放棄だった。すまなかった……」
ロキは膝をかがめて、血溜まりに倒れるオーディンの頭を抱いた。
その様子を見ながら、エリンは静かに答える。
「気にしてないよ。そりゃあ、小さい時は『どうして』と思ったけれど。あの村のみんなだって、そんなに悪い人じゃなかった。子どもたちは私を慕ってくれた」
ロキはエリンの話を聞きながら、オーディンの亡骸をゆっくりと抱き起こしている。自身の服が血に
かつての自分の過ちを、他でもないエリンが赦してくれるのを心に刻みながら。
「シグルドさんや、セティや、ベルタさん、ラーシュさんと出会って、フレキにも出会って。いいことがいっぱいあったから……」
「そう、か」
オーディンの遺骸を抱き上げたロキは、玉座の手前まで歩いていった。
滴り落ちる血痕が、これまでの彼らの道のりのように後に続いた。
玉座まで来ると、彼の周囲に赤い光が灯った。光はみるみるうちに増えて、玉座の間を埋めつくす。
バナジスライトの大群だった。オーディンが映してみせた、三千年前に死んだアース神族たちの結晶体。はるか昔に、彼らが生きた証。
それらの深く光る宝石に囲まれながら、ロキが言う。
「
ロキは仮面を外した。美しい青年の顔は、だが、両の目が閉じられている。
からん、乾いた音を立てて仮面が床を転がる。
「だから、私たちは決めたよ。この星の礎となって、眠ることを。生き残った者はもちろん、バナジスライトの姿となっても意志が残っている者は、皆、賛同してくれた。
敬愛する王を、オーディンを追い詰めてしまったと後悔しながら、この星の生命たちにせめてもの罪滅ぼしをと――」
「どういう、意味ですか?」
エリンが聞いた。ここで聞かなければ、二度と聞けない気がしたのだ。
ロキは微笑む。穏やかに、すべての熱が去った後の、灰に残るぬくもりのような表情で。
「アース神族のバナジスライトは、ユミル・ウィルスの特効薬になる。星を癒やすには、一つや二つでは到底足りない。では、十万ならばどうだろう」
彼を取り巻く方形の宝石が、きらきらと深く輝いている。賛同するように。決意するように。
「私たちはこれから星に溶けて――本当の意味で、死を迎える。星の深い部分に同化して、ずっとお前たちを見守ってゆくよ――」
いつの間にか、玉座の間が崩れ始めている。ゆっくりと崩壊して、瓦礫は下へ下へと落ちていく。
その中に、赤い宝石が混じっている。数え切れないほどの煌めきが。かつての命が。
それらの中心で、動かないオーディンを抱いたロキがいる。彼は彼女に何事か囁いて、そっと額にキスを落とした。
その仕草は深い愛情にあふれていて、エリンは胸が苦しくなった。
「ロキさん!」
だから彼女は叫んだ。崩れ行く床に乗って、だんだんと距離が離れていく中で。
もう二度と会えない人に向かって。
「いいえ、お父さん! 私を造ってくれて、ありがとう。この世界に送り出してくれて、ありがとう――!」
ロキは驚いたように何か言いかけ、次いで泣き笑いの表情になった。
玉座の間の崩壊が進んでいく。細かい破片が降り注ぐ。
それは、成層圏に舞い散る雪のように飛んでいく。最期の別れを彩るように、空に舞っていく。
星の病を癒すため、隅々まで。
この星全てを包み込むように――
崩れ行く玉座の間の下層、もう動きを止めた戦乙女たちの死骸の山に埋もれて。
フレイは一人、ロキの言葉を考えていた。
最愛の妹、フレイヤは死んだ。そんなことは分かっていた。
けれど彼はどうしても、妹にもう一度会いたかった。せめてお別れを言いたかったのだ。
「ユグドラシルが崩れてる。オーディン様は負けたのか……」
戦乙女の屍肉の山から抜け出て、彼は呟いた。
と。
剥がれ落ちる瓦礫に混ざって、見慣れた宝石がふわりふわりと浮遊しているのが見えた。
「フレイヤ?」
話しかければ、バナジスライト瞬いて応える。こんなことは初めてだった。
フレイヤのバナジスライトは、しばしば手にとって語りかけていたけれど、反応など一度もなかったから。
「フレイヤ! フレイヤ!」
彼は子供のように泣きじゃくりながら、宝石を抱きしめた。
やがて天井が崩れて、大きな瓦礫が彼の肉体を押しつぶす。
これでいい、とフレイは思った。もう修復も再生もしなくていい。このままフレイヤと一緒であれば、死ぬのも悪くない。
こうして兄妹は、誰も知らない場所で命を終える――
ユグドラシルの崩壊はごくゆっくりと進み、瓦礫は地上に少しつづ降り注いだ。そのため避難が間に合い、巻き込まれた犠牲者は出なかった。
しかし、長年の信仰の拠り所を失ったミッドガルド市民の混乱は大きく、町のあちらこちらで暴動が起きた。
エリンやムスペルヘイムの人々は言葉を尽くして説明を続けたが、溝はなかなか埋まらなかった。
ただ、明るさを予感する出来事もあった。
思考統制を解かれたエインヘリヤルの各部隊が、白獣やバナジスライトの矛盾に気いたのだ。
エインヘリヤルはかつての神の戦士として、人望が高い。彼らの言葉であれば聞き入れる市民も多かった。
世界中の混乱は簡単に収まりそうもない。エリンたちは奔走する日々を送っていた。
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